日本にとっての悪の枢軸を、中・韓・北にあえてロシアを加えて、4ヶ国だと思っています。 その悪の枢軸に立ち向かう基本的姿勢は、日本が“ぶれ”ないことです。 “ぶれ”ると必ずつけ込んでくる。 日本人同士だと、お互いに心を忖度そんたくしたりしてうまく話をつけ、示談になると、そこから後は文句を言ったりしません。

 しかし、彼ら4ヶ国は、恥を知らない。

 例えば1965年、韓国とは日韓基本条約の日韓基本協定において、日本が経済協力する代わりに、韓国が個人補償などの対日請求を放棄することを取り交わしています。 以後、過去のことは問題にしないという合意がありました。 しかし、新しい大統領になるたびに、しつこく謝罪を要求してきます。 きりがない!!

 中国も同じことです。 中国とも1978年、日中平和友好条約を結んでいるのですから、その後、戦前のことを持ち出すのはルール違反 です。


 学者など、個人が研究のために、戦前のことを持ち出すのはいい。 けれども、政府がそれらを持ち出してはいけないのです。
 これは日本にしても同じことで、アメリカに対して、個人が原爆や無差別爆撃のことを言うのはかまわない が、日本政府が講和条約以前のことを持ち出してはいけない。 けれど、ロシアに対しては違います。 ロシアとは平和条約を結んでないので、いわば何を言ってもよい。 停戦協定を締結し、ポツダム宣言の受諾を宣言した後で、ロシアは60万人の日本人を拉致し、5万人を殺しました。 ロシアはこれに対して、何も謝罪をしない。 国際法的観念が何もない国だと言えます。
 サハリンで日本が開発段階から参加している油田、ガス田についても、最初は何も言わなかったが、石油によって少し金に余裕ができると、環境問題だなどと言ってどんどん口を挟んでくる。 そもそも、ロシアは環境問題など口にできる国ではありません。 2000年にロシアの原子力潜水艦クルスクが日本海で起こした事故でも放射能汚染を引き起こしているに違いない。
 だから 日本は、これらの国々は、ヤクザ以下の国であると思って、交渉に臨まなければなりません。 たとえば、外務省の人が明治の頃の武士の精神を持つか、成功したヤクザの交渉力を持つか、どちらかが必要だと思います。


中国に金を出すな

 日本は長期間にわたって中国にODAで大金を出してきました。 確かに、毛沢東政権が終わった頃は、中国は発展途上国でした。 しかし、今では日本向けのミサイルをずらりと並べていたり、日本もまだ行っていない有人宇宙飛行をしたりしています。 しかも、アフリカに対しては、日本からのODAを横流しして先進国を気取っている。 こんな国にODAを出す必要は一切ない
 先に述べたように、日本政府は日中平和条約で戦前のいきさつをチヤラにしでいるのですから、このODAを戦後賠償だとは絶対に言ってはいけない。 でもなぜか、日本人には中国に負い目を持っていて金を出し続けようとする勢力がある。 これは、日本人もシナ事変が早く終わってくれればいい、する必要のない戦争だと思っていた当時の雰囲気を知っているからでしょう。

 シナ事変は主として陸軍だけの戦争ですが、出征兵士を送る歌 「 日本陸軍 」 というのがあります。 10番まである歌です。 しかし当時は8番までで歌うのをやめさせられました。 というのは、9番が 「 凱旋 」 で10番が 「 平和 」 だからです。 まだ戦争が終わっていないから歌ってはいけないと学校で言われて、早く歌いたいと思ったものです。
 子どもながらも、どうして早く戦争が終わらないのかと私も感じましたが、そういう気持ちが、日本人のシナ事変に対する悔いになっていると思います。
 中国を戦場にしたのは確かです。 そこに負い目を感じる人もいるのでしょうが、 『 マオ 』 ( ユン・チアン著、講談社 )でも明かになったように、そもそもあの戦争はコミンテルンが仕掛けてきた戦争ですから必要以上に悔いる必要はありません。 陸軍はソ連を睨んでいましたから、シナとの戦争は日本は始めたくなかったのです。 戦争が始まった時の参謀本部の作戦部長は石原莞爾です。 この人はシナなんかとは絶対に戦争をするつもりはなかった。 そんなことに金を使わないで対ソ政策に金を使うべきだという人でした。
 しかし、戦争を仕掛けられてしまったので、黙っているわけにもいかない。 当時は近衛内閣でしたが、7月7日に盧溝橋事件が起こって、その後、上海に飛び火して北京、上海、南京とすぐに陥としてしまいました。 ただし、参謀次長の多田駿はやおは、首都・南京占領の時点で、平和交渉を首相に進言します。 当時の参謀総長は閑院宮かんいんのみや殿下で、お飾りのようなものですから、参謀次長が参謀総長のようなものです。 その人が戦争を絶対にやめたいと言っているのに近衛首相はやめなかった。 陸軍の意見が通らなかったのです。
 どうしても陸軍が戦争をやめたいと言うと、近衛首相は行き詰まって、辞職しなければならない。 日清戦争でも日露戦争でも戦争中に首相が辞職したことはない。 これは国の名誉にかけて絶対にできなかったということです。
 戦後は陸軍を悪者にしますが、その陸軍が戦争をやめたいと言って、それをやめさせなかったのは近衛首相なのです。 近衛首相がなぜ戦争を継続したかったのか、というのは残念ながら、本当のところはわかりません。 東條さんのように東京裁判で近衛さんが裁かれれば、近衛人脈が浮かび上がって、左翼がどの程度関わっていたかわかり、戦後の左翼の運動も抑えられたはずです。
 ブレーン・トラストという言葉は近衛内閣からできたものです。 私は当時、子どもで英語がわかりませんから、何だろうと思いました。 講談社の雑誌 『 キング 』 でその意味を知った記憶があります。 その近衛首相のプレーン・トラスト、今で言えば、顧問団というような意味ですが、これをいちばん掌握したのがゾルゲ事件で逮捕された朝日新聞記者の尾崎秀実ほつみでした。 恐らく、近衛のブレーン・トラストは、シナ事変を続けるようにコミンテルンの命令を受けたのでしょう。
 シナ事変をやらせたがったのは、中国共産党とスターリンです。 スターリンはシナを使ってでも日本の力を削ぎたかった。 中国共産党の毛沢東は、当時、蒋介石に追い詰められていたので、蒋介石の国民政府軍の力を削ぎたかった。 戦後、社会党の佐々木更三が毛沢東に、 「戦争をして申し訳ありませんでした」 と言ったら、毛沢東は 「国民政府を潰せたのは日本軍のおかげです」 と感謝しましたこれは冗談ではなく、本当のことです皆、この事実を知るべきです


対中情報局を!

 日本は対中国情報局を早々に立ち上げるべきです。 あるいは民間に活動を委託してもいい。 そこに、日本が日露戦争の時に諜報に使ったくらいの金に相当する大金を使って、中国が世界中で日本の悪口を言って回っているのに対抗しなければなりません。
 日本の外交官は上品すぎるので、para-diplomatist' つまり民間にも外交官的活動家を用意すべきです。 外交官だったけど辞めた人でもいいし、商社で活躍していた人でもいい。 あらゆる人脈を利用して、彼らのデマに対して逆宣伝しなくてはなりません。
 小泉首相が拉致問題に関して、他の国が知らないことだから情報をもっと出さなくてはならないと言った時に、外務省の中には他の国の悪口を言うのは 「品が悪い」 と言った官僚もいたらしい外交というのは、奥さま方の茶飲み会ではないこんなことだから、日本の外交はうまくいかない のです。
 シナ事変のことなんて、世界の人は知りません。 盧溝橋事件は日本が何度もやめようとしたのに、裏で毛沢東の指令があって、日本軍と蒋介石を戦争させようとしていたと宣伝しなくてはならない。 蒋介石軍と毛沢東軍の関係もきちんと説明すべきです。
 そして盧溝橋事件の後にはよく知られていない 通州事件 というのがあり、シナ軍が日本人居留民260人を虐殺したということも知らせる。 それこそ妊婦の腹を割いたり、性器に棒を突っ込んで、それはひどい殺し方をしている。 中国は日本兵を残虐だと宣伝しますが、あれは全部、自分たちがやったことなのです。 その時の証拠写真を持って、世界中を回るのです。
 南京事変についても、きちんと説明すべきです。 シナは清野作戦と言って、逃げる時に全ての民家を焼いて逃げるという作戦をとりました。 日本は民家を焼きながら攻めるようなことはしないので、焼いたのはシナだということをきちんと言わねばなりません。
 そして、南京を攻めた時は、日本はオープン・シテイしろと言ったということを強調すべきです。 その時、唐生智という将軍が最後まで南京を守ると言ったために、市街戦に持ち込まれてしまった。 いよいよ危なくなったら、この唐生智は逃げ出したのです。 残されたシナ兵全てが、敗残兵になったのです。 これが市民を殺して着物を奪ったりして、市民とゲリラとの見分けがつかなくなりました。 いわゆる便衣隊です。 そして、彼らが安全地区に逃げ込んだため、日本軍はゲリラ狩りをした。 これが過大に伝えられて、残虐行為と言われているだけなのです。
 西洋人にわかりやすくオープン・シティを説明するためには、パリにドイツ軍が来た時にはオープン・シティしたからパリは無事でしたと言えばいい。 逆にパリに向かって連合軍が進軍してきた時は、ドイツ軍がオープン・シティをしたから、パリは2度の戦火でも無事であったのです。 これがオープン・シティの意味です。 国民政府軍は北京も保定も、武漢三鎮もオープン・シティにしたので人的・物的被害は無きに等しかったのです。
 これに対して、説明している相手から、当時から虐殺の話はあったではないか、と言われたら、それはティンパーリの話ですよと言わなければなりません。 ティンパーリという人はオーストラリア生まれで、 「 マンチェスター・ガーディアン 」 の記者だったけれども、蒋介石政府の情報部から金をもらって 『 戦争とは何か 』 という本を匿名で書いたのです。 その後、中国国民党の中央宣伝部顧問になっている人なんです。 その証拠がありますと、一つひとつ説明しなければなりません。 北村稔教授や東中野修道教授たちの仕事は、すべて英訳・仏訳・独訳などして、世界中に普及させなければなりません。


ユダヤ人を救った東條英機

 日本は三国同盟をやったために、よくナチスドイツと並べて悪口を言われます。 でも日本はヒトラーと共同軍事作戦をとったことなんてありません。 三国同盟は確かに賢明な策ではなかったけれども、あの頃はアメリカの圧力が強かったので、孤立してはならないということで軽率にもドイツと手を組んだ。 しかし、軍事作戦的には一切、関係がないと言わなければなりません。
 しかも、ドイツはナチスのユダヤ人政策にならった政策をとるよう、日本に要求してきましたが、日本の政府は五相会議( 首相、陸軍大臣、海軍大臣、外務大臣、大蔵大臣が出席 )で陸軍大臣がいちばんはっきり拒否したのです。 日本は神武天皇の時の八紘一宇の精神、つまり 「 すべての民族が一つの屋根の下にあるがごとく 」 の理想を持っている。 だから人種によって差別をしないのだとはっきり言ったのです。
 当時のイギリスもアメリカも国策として差別しないとは言ってない。 けれど日本は違った。 だから杉原千畝ちうねがユダヤ人を数千人も救おうとすると、日本政府はそれを受け入れたわけです。
 もっと注目すべきは、杉原さんの旅券問題の二年も前にユダヤ人はシベリア鉄道で満洲に逃げてきました。 国境で立ち往生していた彼らを受け入れたいと思ったハルピン特務機関長の樋口少将は、当時の関東軍の参課長である東條英機にお伺いを立てた。 東條さんは、それを即座に受け入れると決断したのです。 そしてユダヤ人は皆、助かった。
 さらに言えば、ユダヤ人を差別しないために八紘一宇の精神を持ち出したのは、板垣征四郎です。 皮肉にも二人とも東京裁判で死刑になっています。 この話をすれば、東京裁判がいかにいい加減なものであったのか、象徴的にわかります。 ユダヤ人は世界中にいるのですから、こういう話をしない手はないのです


強い国になるために

 日本は国運をかけて日本の宣伝をしなければなりません。 中国の運動を封殺する行動に出なければならない。 そのしっぽについている拉致犯罪国家・北朝鮮と北朝鮮の核武装を本当は喜んでいるはずの韓国、そして漁師に向かって発砲をする蛮行国家ロシアの国々に対抗していくべきなのです。
 北朝鮮にしろ、韓国にしろ、中国のしっぽです。 4ヶ国が悪の枢軸だと言いましたが、中心は中国で、潜在的脅威がロシアです。 事実、中国と北朝鮮は、かつての日露戦争直前のロシアと朝鮮の関係に似ています。 日露戦争の直前、日本はロシアが満洲に居座ったところまでは目をつぶったのですが、さらにロシアが朝鮮から竜岩浦という漁港を借り、軍港に替え、鉱山発掘権、材木伐採権をとった。 これに日本はしきりに抗議したが無視です。 そして、ロシアは最後に領海湾に軍港を借りたいという意志を示したので戦争になったのです。
 今、中国が北朝鮮に対して何をしているか。 羅津という港を50年間租借しました。 これは大きい。 羅津はもともと日本が港として整備したところで、日本海に面している。 その背後の鉱山や材木を考えると、今の中国は日露戦争直前のロシアと同じことをしているわけです。
 中国は今、資源で困っていますから、アフリカに対する働きかけもすごい。 中国向けの石油パイプラインを守るために、スーダンに6万人、アンゴラに5万人の人民解放軍の兵士を派遣していると言われています。 兵士と言っても元来は犯罪者で、牢獄に入れる代わりにアフリカに入れているという見方もあります。 モザンビークの外務省の建物は中国の援助で建てられ、中の設備も中国製だと山谷えり子参議院議員は言っています。 ザンビアの銅山も中国が握ったという報道もあります。 日本の満洲進出そっくりです。 なぜ、アメリカが何も言わないのか不思議です。
 戦前の日本は日本の宣伝をきちんとしていたのです大使はプライベートな集まりでも、大東亜戦争の真実を説明し続けるべきです。 外務省がやらないと言うのならば、政府が民間の外交ができる人を使ってでもやるべきです。 何も嘘を言って回る必要はないただ、事実を証拠とともに説明して回ればよいのです
 そして、日本は東京裁判史観に侵されていますから、当時の真実を若者は何も知らない。 これをわからせるためには、国家公務員試験にはパール判事の判決書を試験科目に入れるべき だと思います。 パール判決書を読めば、戦前の真実がよくわかります。 靖国神社にパール判事の言葉の石碑を建てたのは非常によいことだと思います。
 しかし、あそこにもう一つ、遊就館には1951年のマッカーサーの上院軍事外交合同委員会におけるあの証言、 「 したがって日本が戦争に突入したのは主として自存自衛のために余儀なくされたのだ 」 という意味の 「 Their purpose, therefore,in going to war was largely dictated by security 」 という文章を刻みこむべきです。 受け身でいるだけではダメです。 相手が悪質なのですから、こちらも世界に真実を訴えていくべきなのです
 日本にとって多少の希望の光は、安倍音三新総理が 『 美しい国へ 』 ( 文春新書 )の中で、戦後はじめて首相で 「 強い日本 」 という言葉を使っていることです。 これは当たり前のことで、弱い国でよいなどという発想は世界各国ありません。 安倍総理には強く強引に信じる道を進んでもらいたいと思います。
 そして万一、今回は長期政権でなくとも、まだ若いのですから第二次、第三次、第四次内閣を組織するくらいの覚悟で所信を実現して頂きたいものです。




( 2015.04.07 )

   

 戦後70年、中国は自らが犯した戦争犯罪をひた隠しにしてきた。 その一つが、多数の在留邦人が虐殺された 「 通州事件 」 だ。 残されたわずかな記録からその封印を解く。

 その凄惨な事件は、日中が本格的な軍事衝突を始めた盧溝橋事件( *注1 )直後の1937年7月29日、北平( 現在の北京 )近郊の通州で発生した。

 当時、満州国と隣接する中国・河北省には、蒋介石の国民党政府から独立し日本人が実質統治していた 「 冀東きとう防共自治政府 」 が置かれていた。 自治政府は九州と同程度の面積で、人口はおよそ700万人。 「 首都 」 である通州には400人近い日本人が暮らしていた。 自治政府の首班は、日本への留学経験もあり、日本人の妻を持つ親日派の殷汝耕いんじょこう。 通州には邦人保護を目的とする日本軍守備隊も駐留しており、比較的、治安は良好だった。

 ところが、突如として自治政府の中国人保安隊約3000名が武装蜂起し、首班の殷汝耕を拉致した上で日本軍守備隊と日本人居留民を奇襲したのである。 事件当時、通州に滞在していた米国人ジャーナリスト、フレデリック.V.ウィリアムズ氏は、惨劇の様子を自著 『 Behind the news in China 』 ( 1938年 )で克明に綴っている。
「それは一九三七年七月二十九日の明け方から始まった。 そして一日中続いた。 日本人の男、女、子供は野獣のような中国兵によって追いつめられていった。 家から連れ出され、女子供はこの兵隊ギャングどもに襲い掛かられた。

 それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。 ひどいことには手足を切断され、彼らの同国人が彼らを発見したときには、ほとんどの場合、男女の区別も付かなかった( 中略 )何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。 中国兵が強姦し、拷問をかけていたのだ」

( 訳書 『 中国の戦争宣伝の内幕 』 芙蓉書房出版刊・田中秀雄訳 )

 事件の当日、日本軍守備隊の主力は南苑での作戦( *注2 )に投入されており、通州に残る守備隊はわずか100名に過ぎなかった。 守備隊は30名の兵を失いながらも必死の反撃を続けたが、翌日、日本軍の応援部隊が現地入りするまでに、223名( 防衛庁編纂 『 戦史叢書・支那事変陸軍作戦1 』 より。 260名~300名とする説もある )の邦人が虐殺された。

 事件の首謀者は、自治政府保安隊幹部で反日派の張慶餘ちょうけいよ張硯田ちょうけんでんだった。 両者は直前に起きた 「 盧溝橋事件 」 で日本軍と武力衝突を起こした国民党軍第29軍と予てから密通し、武装蜂起の機会を窺っていた。 背後で糸を引いていたのは中国共産党だ。

 当時、蒋介石率いる国民党は中国共産党との 「 抗日共闘路線 」 に舵を切っており、第29軍の主要ポストにも複数の共産党員が充てられていた。

 日本と国民党政府の全面対決を画策する共産党は、冀東防共自治政府とその保安隊にも 「 抗日分子 」 を浸透させ、日本人襲撃計画を立てていた。 通州の惨劇は、中国共産党の謀略による “計画的テロ” だった可能性が高い。

 当時の新聞各紙は 「 比類なき鬼畜行動 」 ( 1937年8月4日・東京日日新聞 )、 「 鬼畜 暴虐の限り 」 (1937年8月4日・読売新聞 )といった見出しで冀東保安隊による殺戮の一部始終を報じ、事件直後に現地入りした読売新聞社の松井特派員は、惨状をこう伝えていた。
「崩れおちた仁丹の広告塔の下に二、三歳の子供の右手が飴玉を握ったまま落ちている。 ハッとして眼をそむければ、そこには母らしい婦人の全裸の惨殺死体が横たわっているではないか! ( 中略 )池畔にあげられた死体のなかには鼻に針金を通されているものがある( 中略 )男の鼻には鈎の様に曲げられた十一番線の針金が通され無念の形相をして死んでいる( 後略 )」
( 1937年8月4日・読売新聞夕刊 )

 事件後の現場には、青龍刀で身体を抉られた子供や、首に縄をつけて引き回された形跡のある男性の死体もあった。 この事件後、日本国内の対中感情が急速に悪化し、日中戦争の泥沼に向かっていった。

【 *注1 / 1937年7月7日、日本軍と中国の国民党軍の間で起きた武力衝突事件。 中国共産党軍が事件を誘発させたとの説が有力となっている 】
【 *注2 / 日中戦争初期の戦闘 「 平津作戦 」 のひとつ 】