日本に対して、 「歴史の直視」 を訴える中国政府の急所は、自国の歴史認識に他ならない。 1937年に北京郊外で発生した 通州事件 と46年に吉林省で発生した 通化事件。 いずれも多くの日本の民間人が虐殺されたが、中国共産党は、現在に到るまで隠蔽し続けている。 調



 今年に入って中国が、日本に対して次々と 「歴史カード」 をきってきています。 最近では、虐殺の事実を確認できない南京事件の犠牲者を 「40万人」 とまで言い始め、 「日本兵の残忍さ」 を世界中に宣伝しています。 3月21日の日中韓外相会談でも中国の王毅外相は日本の岸田文雄外相に 「歴史を直視せよ」 と述べ、安倍政権を厳しく牽制しました。
 しかしこの言葉は、中国にこそ向けて発せられるべき言葉だと、思います。
 中国の地で日本人が及んだとされる残虐な行為のほとんどは根拠に乏しいからです。 たとえば南京では 「赤ん坊を空中に投げ、落下するところを剣で刺した」 という話を中国政府は広めています。 日本の先人たちが、その種の暴虐に及んだとは俄には信じがたいのです。
 調べてみると、そうした蛮行はむしろ中国人が日本人に対して及んだ行為であることが分かってきました。 日本ではなぜかあまり知られていませんが中国では日本人に対する虐殺事件が幾度も起きています。 代表的な事例が1937年7月29日の通州事件です。
 通州事件では約400人の在留日本人のうち200数十人が虐殺されました。 女性たちは辱められ、遺体を切り刻まれ、中国兵たちは切り落とした頭部で遊んだとさえいいます。 首を固定して吊るされている人たちも目撃されました。 彼らは食事を水を与えられず放置され、何日問もの長い間苦しんで死に至ったのでしょう。
 気付かれたでしょうか。 これらは、南京で日本人が犯した残虐行為だと中国政府が主張するものと酷似しています。
 人間は、自分の行動や価値観に基づいて、他人の行動を推し量ろうとする生き物です。
 中国政府が、日本軍が南京で及んだと主張する行為には裏付けがない。 それどころか、日本人の犯罪を後からでっちあげるべく、自らの過去の蛮行を参考にした可能性があるのです。 その一つが通州事件だったと考えています。




 通州事件は中国人の民族性の一端を表していますが、それは100年や200年のスパンで築かれたわけではありません。 紀元前500年から紀元1000年までの約1500年の中国の歴史を、北宋の学者・政治家だった司馬光がまとめた 『資治通鑑』 という歴史書があります。
 1万ページに及ぶこの大著の中に中国人が長い歴史のなかですさまじい拷問を編み出し、政敵や反逆者たちへの罰として、繰り返してきたことが書かれています。 中国では刑は残酷であることをもって是とされ、捕らえた者をより多く、より長く苦しませなければ、逆に刑吏が罰せられました。 通州事件で日本人が受けた残虐な行為は、いずれも同書に繰り返し繰り返し登場する刑罰そのものでした。
 そうした民族性は、戦後も綿々と受け継がれました。
 
 現在も、反政府の活動家や中国共産党内の不満分子に対して、人を人とも思わないようなすさまじい拷問が繰り広げられている、国家主席をはじめとする中国の指導者層は、同書に書かれていた恐怖政治を体制安定のために敷いているのです。




 日本人は中国が仕掛けてくる 「歴史戦」 に、負けるわけにはいきません。
 私はこれまで、中国や韓国の歴史の握造に対して、事実を明らかにしていけば 「日本が必ず勝つ」 と言い続けてきました。 しかし、日本は長い間中国や韓国の主張にまったく反論せず、諸問題に対して 「謝罪した」 「補償してきた」 と言うのみでした。
 第二次安倍政権では、対外発信拠点として 「ジャパンーハウス」( * )を創設するそうです。 これまで情報戦で惨敗し続けた外務省に対外発信を任せてどうなるのかという疑問はありますが、政治が情報戦略の具体策に取り組み始めたことは評価します。 しかし、さらに一歩踏み込んで、中国が日本の蛮行だと主張する数多の行為がまさに 「中国がやってきた行為」 であることを世界に伝えることが必要です。
 中国は安倍政権を 「歴史修正主義」 として批判しますが、歴史を修正し続けているのは中国のほうでしょう。 中国こそ歴史を直視し、反省すべきことを、日本は世界に訴えていかなければなりません。
 そのうえで、




 なぶ

 通州事件 



 戦後70年、中国は自らが犯した戦争犯罪をひた隠しにしてきた。 その1つが、多数の在留邦人が虐殺された 「通州事件」 だ。


 その凄惨な事件は、日中が本格的な軍事衝突を始めた盧溝橋事件( *1 )直後の1937年7月29日、北平( 現在の北京 )近郊の通州で発生した。 当時、満州国と隣接する中国・河北省には、蒋介石の国民党政府から独立し日本人が実質統治していた 「冀東きとう防共自治政府」 が置かれていた。 自治政府は九州と同程度の面積で、人口はおよそ700万人。 「首都」 である通州には400人近い日本人が暮らしていた。 自治政府の首班は、日本への留学経験もあり、日本人の妻を持つ親日派の殷汝耕いんじょこう。 通州には邦人保護を目的とする日本軍守備隊も駐留しており、比較的、治安は良好だった。
 ところが、突如として自治政府の中国人保安隊約3000名が武装蜂起し、首班の殷汝耕を拉致した上で日本軍守備隊と日本人居留民を奇襲したのである。 事件当時、通州に滞在していた米国人ジャーナリスト、フレデリック・V・ウィリアムズ氏は、惨劇の様子を自著 『Behind the news in China』 ( 1938年 )で克明に綴っている。
「それは1937年7月29日の明け方から始まった。 そして一日中続いた。 日本人の男、女、子供は野獣のような中国兵によって追いつめられていった。 家から連れ出され、女子供はこの兵隊ギャングどもに襲い掛かられた。 それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。 ひどいことには手足を切断され、彼らの同国人が彼らを発見したときには、ほとんどの場合、男女の区別も付かなかった。 ( 中略 ) 何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。 中国兵が強姦し、拷問をかけていたのだ」 ( 訳書 『中国の戦争宣伝の内幕』 芙蓉書房出版刊・田中秀雄訳 )
 事件の当日、日本軍守備隊の主力は南苑での作戦( *2 )に投入されており、通州に残る守備隊はわずか100名に過ぎなかった。 守備隊は30名の兵を失いながらも必死の反撃を続けたが、翌日、日本軍の応援部隊が現地入りするまでに、223名( 註・防衛庁編纂 『戦史叢書・支那事変陸軍作戦I』 より。 260名~300名とする説もある )の邦人が虐殺された。


えぐ

 事件の首謀者は、自治政府保安隊幹部で反日派の張慶餘ちょうけいよ張硯田ちょうけんでんだった。 両者は直前に起きた 「盧溝橋事件」 で日本軍と武力衝突を起こした国民党軍第29軍と予てから密通し、武装蜂起の機会を窺っていた。 背後で糸を引いていたのは中国共産党だ。
 当時、蒋介石率いる国民党は中国共産党との 「抗日共闘路線」 に舵を切っており、第29軍の主要ポストにも複数の共産党員が充てられていた。
 日本と国民党政府の全面対決を画策する共産党は、冀東防共自治政府とその保安隊にも 「抗日分子」 を浸透させ、日本人襲撃計画を立てていた。 通州の惨劇は、中国共産党の謀略による “計画的テロ” だった可能性が高い。
 当時の新聞各紙は 「比類なき鬼畜行動」 ( 37年8月4日・東京日日新聞 )、 「鬼畜暴虐の限り」 ( 37年8月4日・読売新聞 )といった見出しで冀東保安隊による殺戮の一部始終を報じ、事件直後に現地入りした読売新聞社の松井特派員は、惨状をこう伝えていた。
「崩れおちた仁丹の広告塔の下に2、3歳の子供の右手が飴玉を握ったまま落ちている。 ハッとして眼をそむければ、そこには母らしい婦人の全裸の惨殺死体が横たわっているではないか!( 中略 )池畔にあげられた死体のなかには鼻に針金を通されているものがある( 中略 )男の鼻には鈎の様に曲げられた11番線の針金が通され無念の形相をして死んでいる( 後略 )」( 37年8月4日・読売新聞夕刊 )
 事件後の現場には、青龍刀で身体を抉られた子供や、首に縄をつけて引き回された形跡のある男性の死体もあった。
 この事件後、日本国内の対中感情が急速に悪化し、日中戦争の泥沼に向かっていった。




 貨車保安隊の所業は、後の東京裁判でも詳らかにされた。 47年4月25日、東京・市ケ谷の軍事法廷証言台に立ったのは、現地で邦人救出に当たった支那駐屯歩兵第二連隊の萱島かやしま高( 連隊長 )、桜井文雄( 小隊長 )、桂鎮雄( 中隊長代理 )の各氏。 以下は 『極東國際軍事裁判速記録』 ( 雄松堂書店刊 )に収録された各氏の証言を抜粋、要約したものである。
桂氏 「カフェーの裏に日本人の家があり、そこに2人の親子が惨殺されておりました。 子供は手の指を揃えて切断されておりました」
桜井氏 「各戸毎に調査して参りますと、鼻部に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等が( 中略 )続々這い出してきました( 中略 )旭軒という飲食店に入りますと、そこに居りました7,8名の女は全部裸体にされ、強姦射( 刺 )殺されておりまして、陰部にほうきを押込んである者、口中に土砂をうずめてある者、腹部を縦に断ち割ってある者等、全く見るに堪えませんでした」
 東京裁判では、このほか通州事件当時の外務省公式声明が証拠として提出されたが、ウェッブ裁判長はこれを却下。 目撃者による口述書の受理に留まった。 戦勝国サイドの中国にとって不都合な史実は、ここに封印されたのである。
 だが、この虐殺劇の目撃者は当の中国人や日本人だけではない。 前出の米国人ジャーナリスト、フレデリック・V・ウィリアムズ氏は、前掲書でこう述懐している。
「私か住んでいた北支の150マイル以内のところに、200名の男女、子供たちが住んでいたが、共産主義者によって殺された。 20名はほんの子供のような少女だった。 家から連れ出され、焼いたワイヤーで喉をつながれて、村の通りに生きたまま吊り下げられていた。 空中にぶらぶらされる拷問である。 共産党員は野蛮人のように遠吠えしながら、揺れる身体を銃弾で穴だらけにした」
 同氏は、中国兵による通州虐殺事件は古代から現代までを通じ、最悪の集団虐殺として歴史に記録されるだろうと記している

 通州事件については、日本軍による冀東保安隊訓練所への誤爆が端緒となったとする説や、冀東防共自治政府と和解が成立していることを挙げ 「中国政府の責任は聞えない」 とする論もある。 日本軍が事件後、日本国内の反中感情を高めるために利用した側面もあるだろう。
 だ




 

 通化事件



 中国人による日本人虐殺は通州事件だけではない。 終戦直後の旧満州国で起きた 「通化事件」 では、中国共産党軍の圧政に蜂起した多数の日本人が犠牲になった。 調


 1945年8月15日の終戦後、朝鮮半島に近い旧満州国の通化( 現青林省 )には1万7000人の在留邦人と、ソ連軍の迫害から逃れてきた避難民を合わせ3万人以上の日本人が暮らし、日本への帰国を待っていた。 ただし、武装解除された日本兵の多くはソ連軍によってシベリアに連行されており、通化に残されたのは女性や子供、老人ばかりだった。
 当時、通化は中華民国・国民党軍の支配下にあったが、8月後半以降になるとソ連および中国共産党の両軍が相次いで進駐。 間もなく、国民党軍は共産党軍( 八路車 )と武力衝突の末、通化から撤退した。
 11月にソ連軍が引き揚げると、新たな統治者となった共産党軍は、通化の行政幹部だった日本人や中国人を次々と逮捕、拷問の後に人民裁判にかけ処刑した。 なお、通化には共産党軍と共闘していた朝鮮人民義勇軍も駐留し、中国人と共に暴行、略奪、強姦を繰り返していた。
 共産党軍は、 「清算運動」 と称し日本人遺留民に対して全財産を供出・再分配するよう命じ、共産主義への転向を求めた。 共産党軍の圧政を批判する者は例外なく連行され、銃殺された。
 そうした中、ある事件が発生する。 46年1月、共産党側の協力者だった日本人男性が何者かに殺害され、日本人遺留民会の幹部ら日本人140人が容疑者として囚われたのだ。 この事件を機に、遺留民の怒りは頂点に達した。
 そのころ通化では、 「国民党軍と旧関東軍の残兵が結託し、共産党軍を襲撃する」 との噂が流れていた。 実際、国民党幹部の孫耕暁は通化に潜伏する旧関東軍の将校らと接触を重ね、武装蜂起の機を窺っていた。 旧関東軍が主体となり、国民党軍のバックアップを得て共産党軍を殲滅、通化を奪還する計画だ。 前年12月には、 共産党軍に編入された旧関乗車飛行隊と戦車隊が通化入りしており、一部の協力を取り付けることもできた。 遺留民の応援も加われば、戦力は2000人を下らない。 こうして、日本人による武装蜂起が決行されたのである。




 旧正月前夜の46年2月3日午前3時、旧関東軍兵士と一部の日本人遺留民からなる反乱軍の先発隊が通化市内の変電所を襲撃し、戦闘の火ぶたを切った。 先発隊が暗闇の中で電灯を3回点滅させると、各所に待機していた部隊が共産党軍司令部や警察署などを次々と襲撃した。 だが、この計画は共産党軍によって事前に察知されていた。 反乱軍と言っても、手持ちの武器はわずかな小銃と蛇や鍬、そしてスコップなど。 野砲や機関銃を装備する共産党軍に敵うはずもなく、反乱軍は国民党軍の加勢も得られぬまま、たちまち制圧された。
 逆上した共産党軍は、前述の事件( 共産党に協力した日本人の殺害容疑 )で収監された140人の日本人を機銃掃射し、同日中には、通化にいた遺留民のうち16歳以上の日本人男子すべてを逮捕・拘留した。 その数は、事件に関与しない者も含め3000人に上ったと言われている。
 通化事件から生還した日本人遺留民のひとり、鎌田昌夫氏は、当時の様子をこう述懐している。
「夕刻から直ちに成年男子の逮捕が始まった。 時に満17歳の私も連行される運命となった。 後ろ手に針金で結わかれ数珠つなぎにされて、前後を銃剣をつけた兵が護送した( 中略 )中には朝まで酷寒の屋外につながれていて足や手に凍傷を負い、歩行もできずに膝ではうような状態の者もいた」 〈 『平和の礎』 ( 引揚編第10巻 〉平和祈念展示資料館刊 )
 同じく通化から引き揚げてきた中郷三己氏は、手記の中で次のように証言している。
「中共( 中国共産党 )側は抗戦派だけでなく、すべての日本人に対して、仮借なく復讐しようとしたのである( 中略 )兵舎の前に集合させられた数百名の日本人は、身震いしておののいていた。 そこに一人の将校が現れて、絶叫するように叫んだ。 『今朝、日本人を主とした反乱軍のために、わが軍は多大の犠牲をうけた( 中略 )報復として、直ちに諸君を銃殺の刑に処する』。 その瞬間、兵舎の窓々から十数台の機関銃が、一斉に火をふいた」 ( 高崎弥生著 『実録遥かなる回想』 より )
 重傷を負って死に切れない者に対しては容赦なく銃弾が撃ち込まれ、死体は凍結した渾江に投げ込まれたという。




藤田大佐は反乱の首謀者とされたが、
真偽は謎のまま。
 即日処刑を免れた逮拙者は監獄や倉庫に収容され、連日拷問を受けた。 長年にわたり通化事件を取材し、複数の関係者に聞き取り調査を行った作家・松原一枝の 『通化事件』 ( チクマ秀版社刊 )によれば、収容施設は立錐の余地もなく逮拙者は5日間、立ちつくしたままで水を飲めずに大小便は垂れ流しのままだった。 精神に異常をきたし叫んだ者は 「うるさい」 と窓から銃撃されたという。
 逮捕者たちは、血の海の中で恐怖に怯えながら耐え忍ぶほかなかった。 その後の公開裁判は高揚した群衆の中で行われ、裁判官が 「この者をどうするか」 と問うと、群衆は 「殺せ、殺せ!」 と叫び狂喜した。 逮捕者たちは 「満州国時代に中国人を酷使した」 などの理由で処刑されたという。
 通化事件の犠牲者には、関東軍・通化防衛兵団第125師団の “髭の参謀” として知られた藤田実彦さねひこ大佐も含まれている。 対ソ連戦に備え通化の守備に当たっていた大佐は終戦後も徹底抗戦を訴え、武装解除に応じず師団を離脱。 消息を絶ったが、通化に残された遺留民を案じ再びこの地に戻っていた。
 藤田大佐は反乱の首謀者とされ、共産党軍に拘束された。 事件からひと月あまり経過した3月上旬、共産党軍は通化の玉豊百貨店で、日本の反乱部隊が使用した武器類や旗、文書の展示会を行った。 そこには、藤田大佐自身が見世物のように並べられていたという。
「坊主頭の中国服を着た小さな男が、陳列品の中央に立っていた。 藤田であった( 中略 )藤田は頭を下げて、呟くように、こういっていた。 『許してください。 自分の不始末によって、申し訳ないことをしてしまいました。 多くの犠牲者を出して、すみませんでした。 すみませんでした』 ( 中略 )やせてやつれた体は、黄ばんで萎んでいた。 風邪を引いているらしく、話している間じゅう、鼻水を垂らしっぱなしであった」 ( 松原一枝前掲書より )
 3日間もの間、朝から晩まで頭を下げ続ける彼に罵声を浴びせる者、唾を吐きかける者もいた。 その数日後に肺炎で死亡した藤田大佐の遺体は、広場に3週間晒された。
 外務省や引揚援護庁( 旧厚生省外局 )の調査では、共産党軍との戦闘で死亡した者は約300名で、拷問・処刑による死者はその4倍の1208名に上る。 忘