「復興には10兆円単位の財政出動が必要になってくるでしょうが、大部分は建設国債で賄えるはずです。 この円高を見ても日本の信用力が落ちているわけではない。 それなのに、菅政権からはこの機に乗じて、子ども手当や臨時増税を復興に充てようという声が出ている。 首相はそのうち消費税増税も言い出すのではないか。 原発事故の拡大を招いた自らの失策と無能を棚に上げ“震災大増税”では、国民は2次災害に遭うようなものです。 それでなくても今後の税収減は確実で国の財政は悪化するのに、増税で国民の消費意欲まで減退しては、この国はいよいよ立ち直れなくなりますよ」
 


平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震について
平成23年3月12日(20:50)現在 緊急災害対策本部
大震災:原発事故2日間
検証:大震災
( あくまで菅前首相の証言をもとに構成したものである )



視(2011.03.11)
省(2011.03.13)
(2011.03.13)
し(2011.03.14)
判(2011.03.15)
 ?(2011.03.15)
退」(2011.03.15)
な(2011.03.16)
員(2011.03.17)
(2011.03.17)
 」(2011.03.18)
」(2011.03.18)
ち + 男も(2011.03.18)
る(2011.03.18)
水素爆発2日後…東電全面退去打診 首相が拒否(2011.03.18)
 
   」(2011.03.18)

番組に見(2011.03.19)
否(2011.03.19)
げ(2011.03.19)

  
す(2011.03.20)

民主議員「」(2011.03.21)
に(2011.03.22)
議(2011.03.22)


質(2011.04.01)
 判(2011.04.04)
 」 + 会(2011.04.04)
ず(2011.04.04)
上原元佐賀大学長 原
怒(2011.04.09)
 声(2011.04.10)
」 首相発言として伝わり波紋(2011.04.13)
 標(2011.04.16)
 れ(2011.04.23)
 ン(2011.04.26)
★★★!(2011.04.27)
見(2011.05.06)
 
  る(2011.05.07)

怒(2011.05.10)
(2011.05.11)
怒(2011.05.11)
へ(2011.05.13)

 
  」(2011.04.29)
大震災100日 か(2011.06.18)


《 番外 》


 
アエラが謝罪
使

2

 
.
 

  

 

   


 
《極秘資料が暴く》 国







東日本大震災・福島原発事故にみる
 

  



  








 

 地震、津波、原発という三重の苦難。 日本人としてこの国難をいかに乗り越えるか。 わが祖国をしっかりと再建しようという思いは誰もが共有するものだ。

 被災地に入った人は、自衛隊と消防がいかによく働いていたかを見たという。 また別の医師は、行政の援助の遅れに不平不満も言わず迎えてくれた過疎集落の人たちに感激したと話した。 危機に際し、助ける日本人も助けられる日本人も立派だった。

 ところが政府の対応はどうか。 福島第1原発はあの地震にも耐えて原子炉を止めるという日本の技術力の素晴らしさを示したが、冷やすという次の段階でつまずいている。 人災の面もあるだろう。 3週間もたつのに中央政府のリーダシップがまるで見えない。

 菅直人首相の支持率は震災後に急上昇した。 国民の気持ちに応えて全力で立ち向かわなくてはいけなのに、国家意識の欠如が甚だしい。

 安全保障会議の開催という強力な権限が付与される方法があるのに、全く開かれていない。 開催すれば全閣僚を集め、問題点と対処方法を見つけるよう指示を出すことができるのだ。

 思い余って官邸に電話したら、官僚の一人が 「忙しすぎて開けない」 と答えた。 ここは大阪だから関西流でいえば 「あんた、あほとちゃう」 だ。 こんな体たらくがあるだろうか。

 一方で菅首相は、原発の専門家を次々と内閣参与に取り立てている。 多くの意見や提案の中で対応を決めかね、後手後手に回っていることが心配だ。

 国際社会からは多くの支援を受けたが、本当の友達がどの国なのかもはっきり見えてきた。 ロシアは日本への領空侵犯に近い行動を取り、中国は海上自衛隊の艦船にヘリコプターを異常接近させた。 「本当の友達がどの国なのかはっきりした」。 またロシアのメドベージェフ大統領は、日本のような自然災害の多い国での原発立地を規制しようとも取れる発言をした。

 米国は1万8千人の兵員や空母、航空機を投入するほか膨大な物資も送り、親身になって支援してくれている。 本当に頼れるのは価値観を共有する国々であり、さらには同盟関係にある米国なのだ。

 震災によって日本人の立派さも現れたが、国家の力を発揮できる改革が必要なこともはっきりした。 憲法を改めて見つめ直し、自衛隊は正規の国軍として守りを固めることが重要だ。 私たち一人一人が日本人であることに誇りを持ち、感謝し、思いを新たにして震災を乗り越えたい。





( 2011.10.13 )
[東日本大震災]


 大阪では、福島の業者が納めた資材がアブナイからと、橋が架けれんようになっとると聞く。 同じ関西の京都の五山送り火では、セシウムがちょこっと出たというだけで、岩手の松が突っ返された。 愛知では東日本大震災復興と銘打った花火大会で被災地の福島の業者が作った花火を、放射能まき散らす気か、とネジ込まれ、大輪の花を咲かすことができんかったのである。 あまつさえ東京都が岩手のガレキ受け入れるのさえ反対した。

 何でも反対、反核、反戦、平和をお題目とする 「プロ市民」 のしわざや。 プロ市民はすぐ子供をダシにするのが特徴や。 漫画家が “ちょっと変わった家” 建てたら、気分が悪くなった。 近所にサバイバルゲームのフィールドができると、迷彩服見て子供が怖がって外に出られん ─。 これらと同じ連中である。

 プロ市民は単なる 「地域エゴ」 を市民運動と呼ぶ。 日本にはプロ市民が信奉する憲法があり、表現、言論の自由が確かに認められている。 反政府やろうが反原発やろうが、どんな勝手な意見述べるのも自由やがおんどれらのエゴで同じ日本人が風評被害に苦しめられとんのやで。

 緊急時避難準備区域解除になる前にも、南相馬に戻った市民も少なからずいる。 そこが生まれ育った故郷だから、そこに家や仕事があり、家族が隣人が友人がいるからである。 たとえガレキに埋もれてても、たとえ原発の近くでもである。

 そこに住むなというのか、なぜ同じ日本人として福島の苦しみを共有しようとしない、なぜ東北の悲しみが理解できない、プロ市民は。 おのれは安全地帯にいて危機感をあおるだけ煽る。 汚染されとる、アブナイとヒステリー起こし、風評被害拡大させとんのはどいつや!





( 2011.12.31 )


 東日本大震災で、東京電力福島第1原発事故の対応を指揮した陸上自衛隊中央即応集団の宮島俊信・前司令官( 58 )のインタビュー記事。
 深刻さを増す原発、見えない放射線の恐怖の中で、 「最悪の事態を想定し、避難区域を原発から100~200キロに広げるシミュレーションを重ねた。 状況によっては関東も汚染されるので、日本は終わりかと考えたこともあった」 と緊迫した状況を明かした。

 自衛隊が警察や消防などの関係機関を指揮下に置いて任務に当たったのは自衛隊史上初めて。 しかし、自衛隊に暴走する原子炉を止める能力はない。 宮島さんは 「ヘリコプターによる原発への放水は、本格的な冷却装置ができるまでの時間稼ぎにすぎなかった。 高濃度の放射能などへの不安はあったが、我々がここまでしなくてはいけなくなったというのは、かなり危険性があるという裏返しだった」 と語る。

 その上で、 「危険に立ち向かってでも事故を抑えるんだという日本の本気度を示す一つの手段だったと思う。 あれが大きな転換点となり、米国を中心に各国の積極的な支援につながった。 自国が命を賭してやろうとしなければ、他国は助けてくれない」 と話した。

原発事故対応の指揮を命じられたのは
自衛隊内では3月14日、同20日には菅直人首相( 当時 )から警察、消防も含めて一元的に指揮するよう命じられた。 (1)物資輸送と水の供給 (2)原発を冷却するための放水 (3)避難民支援や除染 (4)ヘリコプターによる放射線測定などにあたった。
これまで原発事故対応の訓練は
まったくしていなかった。 あくまでテロなどの備えとして持っていた放射線の知識を流用して対処した。
被ばくへの恐怖は
まったく予想しなかった任務だったので、当初は隊員にも相当な不安があった。 現地で指揮を執った副司令官がまず一人で現場に赴き、状況を確認した上で 「大丈夫だ」 と笑顔を見せた。 それで隊員たちも安心し、落ち着いて行動することができた。 消防車による放水では線量計の警報が常時鳴っているとの報告を受けたが、それなりの防護をし、放射線量を管理していたので大きな心配はなかっ
ヘリによる放水を命じられた時は
本当にやるのかと不安はあった。 高濃度の放射能に加え、5トンの水を上空から落とせば衝撃で第2の爆発を起こすのではとの懸念もあった。 危険は分かっていても、ここまでやらないといけないぐらい後がないという判断だった。 放水の様子を画面でにらみながら祈り続け、無線で 「命中しました」 と聞いた時はホッとした。
最悪の事態を考えたことは
部下に知られないよう1人で司令官室の地図に模型を配置しながら、避難区域を100~200キロに広げるシミュレーションを重ね、日本は終わりかと愕然としたこともあった。 我々は 「想定外」 という言葉を使わない。 すべて最悪の事態を考え、想定内に納めておかないと対処できませんから。
かなりの重圧だったのでは
自衛官になって35年間、常に指揮官とはどうあるべきかを自問自答してきた。 孤独に耐え、心中は相当に焦っていても悠然とした態度を部下に見せることが非常に重要だと思っている。
関係機関との連携は
東電は情報隠しと責められたが、持てる情報はすべて出してもらったと思う。 自衛隊の一元的な指揮は戦後初めてだが、おかげで警察、消防、東電を含め関係機関が一体的に行動できた。 ただ、自衛隊は主役ではない。 本格的な冷却装置が作動するまでの時間を稼ぎ、政府や東電の判断に余裕を与えるのが役割だった。
今後の課題は
どこまで自衛隊に原発対応を求めるのか明確にしないと教育や訓練ができない。 また原子力災害を想定した訓練が各地で実施されているが、これまでは安全神話の下で形式的なものだった。 今回の教訓を生かし、実効性のあるものにしなければならない。
中央即応集団( CRF ):テロなどの新たな脅威や国際貢献活動に迅速に対応するため、07年3月に編成された防衛相直轄組織。 司令部は朝霞( 埼玉県 )。 対テロ対策部隊 「特殊作戦群」、核・生物・化学兵器対処専門の 「中央特殊武器防護隊」 など専門性の高い部隊を持つ。 原発事故には同防護隊が中心に活動した。



( 2011.08.25 )


 「東電のばか野郎が!」。 首相の菅直人が、福島第1原子力発電所事故をめぐり東京電力への怒りを爆発させたのは3月15日、東日本大震災の発生から4日後のことだった。 大震災から1週間後の検証記事に 「東電が後ろ向きな姿勢だったことに、菅が不信を募らせた」 とあった。 だが、その後分かってきたのは、現場を理解しない上スタッフも信用せず、イライラを 「東電不信」 という形でぶつける最高指揮官の姿だ。 冷静さを失った菅が自ら作り出した 「東電不信」 ――。 首相は26日、正式に退陣を表明するが、東日本大震災を 「天災」 から 「人災」 に変質させた首相の混乱ぶりを改めて検証する。




海水注入

 「海水注入を止めるような指示はしていない。 真水がなくなったら、海水を入れるのは当然の判断です」
 菅は週刊朝日のインタビューで、3月12日夜の1号機海水注入について 「首相が注入停止を指示した」 との報道を改めて否定した。
 だが、関係者が異なる菅の姿を証言し始めた。
 同日午後に起きた1号機の水素爆発。 菅はこれですっかり狼狽ろうばいしていた。 東電や原子力安全委員長の班目春樹ら原子力の専門家さえ、格納容器が破裂する可能性はあっても建屋の水素爆発は 「想定外」。 菅は水素爆発の可能性を進言しなかった班目らへの不信感を強めていた。
 そこに海水注入が持ち上がる。
 東電は原子炉注入用の真水がなくなる12日午後2時50分すぎに海水注入を行うと決め、首相官邸にファクスで通報した。 ところが官邸内の危機管理センターに届けられたファクスは書類に埋もれ、菅の手元には届かなかった。
 東電側は 「官邸の反応がない」。 菅は 「東電は何も言ってこない」。 双方がイライラした。 こうして、海水注入をめぐるドタバタが始まる。
 午後6時前。 首相執務室隣に用意された原発事故用の対策室。 菅の前に経済産業相の海江田万里、班目、東電関係者らが集まった。
 海水注入開始を知っていた東電関係者が 「海水注入しかない」 と説明。 全員が菅の顔色をうかがった。
 菅は 「すぐにしろ」 とは言わなかった。
 「安全委はどうだ。 保安院はどうだ」
 矢継ぎ早にただす菅。 班目らが 「それしかない」 と返事すると、しばらく沈黙してから 「爆発」 した。
 「海水を入れると、再臨界になるという話があるじゃないかっ」
 さらに、班目らに視線を向けると言い放った。
 「君らは( 建屋の )水素爆発はないと言っていたな。 だから、再臨界はないと言い切れるか!」
 負い目を感じた班目らが 「ゼロではない」 と答えると、菅は 「その辺をもう一度整理しろ」 と怒鳴り散らした。
 その場の東電関係者は、 「この状況で海水注入はできない」 と判断。 慌てて部屋を出ると、携帯電話で東電本店に連絡を取った。
 「首相の了解が得られていません」
 本店は海水注入作業の一時中止を福島第1原発所長の吉田昌郎に指示。 対策室にいた一人によると、首相補佐官の細野豪志( 現・原発事故担当相 )も電話で吉田に 「首相了解が得られるまで作業をやめろ」 と伝えた。
 吉田も含め原子力の専門家からみれば、不純物の少ない真水のほうこそ再臨界の可能性があり、海水注入による再臨界を指摘する菅は 「ナンセンス」 だった。
 吉田が、菅の 「指示」 を無視し海水注入を続行したのは奇跡的だった。 菅は後に、この日の経緯がなかったかのように 「注入を続けたこと自体は間違いではない」 と、白を切り通す。
 首相の指示なしでは動けなくなった東電。 そして、菅はハリネズミのように、周囲すべてに不信の目を向け 「東電は海水注入に後ろ向きだ。 これは廃炉を恐れているのだ」 と、東電不信にはけ口を求めていくようになった。




水素爆発

 首相、菅直人が受けた最初の衝撃は、3月12日午後3時半過ぎに1号機の建屋が水素爆発で吹っ飛んだことだった。
 当時、菅は官邸に各党党首を集め、福島第1原発について 「危機的な状況にはならない」 と楽観的な見方を示していた。
 それだけに、会談を終えて首相執務室に戻った菅は 「一報」 に震え上がった。 同時に 「現地から 『大きな爆発音がした』 という情報がありました」 との東電からの曖昧な情報に 「正確な情報が来ない」 と不満を抱いた。
 現場では、発電所長の吉田昌郎らが重要免震棟に詰めていたが、爆発した1号機全体を映し出すモニターがない。 「外に出て確認します」 と部下はいうが、放射線量が高く、外に出るのは容易ではなかった。
 だが菅は、数時間前に現地視察したにもかかわらずそれが理解できず、 「情報が遅い」 の一点張り。
 「どうなっているんだ」
 東電のオペレーションルームに再三にわたって催促するが、爆発から1時間が過ぎても正確な情報は来ない。 テレビ局が第1原発に向けたカメラを設置しているのを知っていた経済産業相、海江田万里が 「NHKから映像を借りたらどうか」 と提案。 NHKには 「諸般の事情」 で拒否され、最終的に民放テレビ局の映像を借りた。
 菅は、民放からの映像を見て水素爆発を確認するしかなかった。
 「どうなっているんだ」
 菅はすべての責任を東電に押しつけつつあった。 官邸が見ることのできる第1原発の映像は、その後も民放局が提供したものが使われ、東電側が独自のカメラを設置したのは数日後のことだった。

ベント

 11日午後3時半すぎ、大震災による津波を受けた第1原発は、1~3号機の電源が喪失した。 停止した原子炉を 「冷やす」 作業ができなくなったことを意味する。 温度上昇による炉内の圧力上昇が確実になる中、菅は午後7時すぎ、原子力緊急事態宣言を発令、 「原子力災害対策本部」 を設置した。
 しかし、現地は地震と停電の影響で混乱し、東電本店も社長の清水正孝( 当時 )が出張先から戻れず、同様の状況だった。
 官邸内も混乱していた。 危機管理センターでは、危機管理監の伊藤哲朗らによる津波被害の状況把握が優先されていた。 原発事故対応は首相執務室の隣室と危機管理センターの別室を充て、菅自らが陣頭指揮を執ることにした。
 菅の意向は、官邸に詰めていた東電関係者を通じて東電本店のオペレーションルームに伝えられ、さらに現場に行く形になった。後に菅らは 「伝言ゲーム」 と自嘲するが、現場の状況が自らの思う通りに入らず、 「東電は何か隠しているのではないか」 という思いに駆られ、徐々に冷静さを失っていった。
 午後10時、原子力安全・保安院が、2号機について12日には炉内の燃料棒が溶け出し、爆発が起きる可能性を指摘する報告書を作成、数十分後には菅に届けられた。 原子力安全委員会委員長、班目春樹も格納容器が破裂する可能性があると菅に指摘した。
 ベント( 排気 )の作業を考えたのは、実は菅よりも東電側が先だった。 12日未明、東電がベントの実施を通知、菅も追認した。
 ところが、現場は作業に必要な電源がない上に、放射線量の上昇などでベント開始への作業は手間取った。 現地の苦闘ぶりが入らない菅は、東電本店に 「早くやれ」 と執拗しつように催促。 それでもベント開始の連絡が入らないことに 「東電はやる気がない」 と、 「東電不信」 を募らせた。




 ベントをめぐる菅の混乱はここから本格化する。
 「吉田とじかに話したい」
 菅が現地視察を決断したのはこうしたことがあった。 同時に 「格納容器の中はさらに悪い状況になっているのではないか」 との不安から、避難指示の範囲を半径3キロ圏内から10キロに拡大させ、 その1時間ほど後にはベント実施を経産相命令として出した。
 そんな対応が、放射性物質の放出をもたらすベントの最中に住民を移動させた、と後日国会などで批判を受けることになる。 ただ、東電はベントの危険を承知しており、新たな避難が始まったことで作業を中断、実際にベントを開始したのは避難が完了したのを受けてからだった。
 ただ、政府関係者は 「あの経産相命令が、東電を、政府の指示がなければ動けないようにさせた」 と指摘する。
 一方、菅が現地視察を言い出したことは、ベントに集中していた官房長官の枝野幸男や海江田、班目ら官邸に詰めた関係者全員にとって、自ら被曝しに行くようなものであり 「まさか」 のことだった。
 もっとも、東電側は 「ベント作業への影響はなかった」 とし、菅自身も 「吉田所長と会って話してきたことは後々非常に役立った」 と成果を強調する。 しかし政府関係者は一様に 「どこで生かされたのかはわからないし、首相も具体的には言わない」 という。
 15日未明、菅の東電不信は頂点に達した。 「東電が現場から撤退する」 との情報がもたらされたためだ。 前日の14日は3号機でも建屋の水素爆発が起き、15日未明には2号機の圧力抑制室( サプレッションルーム )が損傷した。
 菅は東電へ直行し、清水らに 「撤退なんてあり得ない」 と怒鳴り散らし、東電内に政府と東電の統合連絡本部の設置を決め、首相補佐官、細野豪志( 当時 )を東電の監視役につけた。
 ところが、東電に 「撤退」 の選択肢はもともとなかった。 「一時退避して態勢を立て直す」 方針だったのを、官邸内の誰かが間違って解釈したのだ。
 菅は 「週刊朝日」 のインタビューでも、15日未明に東電が撤退しようとしたと主張している。
 政府の事故調査・検証委員会はすでに吉田ら東電関係者のヒアリングを行い、近く菅ら政府首脳のヒアリングも行うとみられる。 検証委はどのような結果を出すのか。







 

 米国務省の震災対応タスクフォース( 特別任務班 )携わったケビン・メア元国務省日本部長は新著 「決断できない日本」 に、その奇異さを記している。

 「大津波襲来による電源喪失から1週間が経過したその日、日本という大きな国家がなし得ることが、ヘリ1機による放水に過ぎなかったことに、米政府は絶望的な気分さえ味わった」

 メア氏は 「菅首相は福島第1原発事故の責任を取りたくないばかりに、事故処理をあくまで東京電力の問題としたフシがある」 と言い切る。

 「あきれるような対応」 はほかにもあった。

 事故直後、米国側は日本側に提供できる品目のリストを送った。 ところが、日本からは回答はなく、長々とした質問だけが送られてきた。

 リストに記載されていた無人ヘリ。 日本側は性能や特徴に関する細かな質問をした上で、 「放射能で汚染された場合の補償はどうなるか」 と非常事態とは思えない質問まで並べた。

 その問い合わせに答えるために、日米間で2週間が空費されたという。 メア氏は 「誰も責任をとりたくないから、緊急事態でも決断できる人がいない」。 そう菅政権を断罪する。





( 2011.08.26 )


  安全保障会議を開き、災害対策基本法による緊急事態布告をすべきだった。 平時法で対応した結果、各省が縦割りで権限を振り回し、被災地対応に遅れをもたらした。

  危機管理は最悪の事態を想定して未然に手を打つことだが、原発事故では避難地域を3キロ、10キロと順に広げていく泥縄式だった。

  政府に強力な対策本部を作り、指揮系統を1本に絞り、全てを統括しただろう。 阪神大震災の小里貞利氏のように、震災担当相に全権を委任する組織管理ができたはずだ。

  責任を分散させ、権限関係を不明確にして事態を混乱させるのは、首相が市民運動出身だからだ。 菅政権はNGO( 非政府組織 )のような動きをした。 誰がどこでどんな活動をしているか分からない政権だった。





( 2012.01.08 )
 



 たとえ隠したいと願っても、隠しきれるものではないのだろう。

 東京電力福島第1原発事故に関する政府の事故調査・検証委員会が昨年12月にまとめた中間報告で、当時の首相官邸、とりわけ菅直人前首相自身のパニックと暴走が無用の混乱を招いていた ことが改めて裏付けられた。

 現場は過酷な条件の下、第1原発1号機のベント( 排気 )に半ば死を覚悟して取り組んでいた。 ところが菅氏は東電側が 「ベントをためらっている」 と誤解 し、いらだちを募らせた結果、東日本大震災翌日の3月12日早朝に急遽、現地に乗り込んだ。

 「首相の対応に多くの幹部を割く余裕はなく、自分一人で対応しようと決めた」

 吉田昌郎所長(当時)は事故調にこう証言している。 政府の現地対策本部長だった池田元久前経済産業副大臣も、菅氏の様子を東日本大震災発生後5日間を記録した覚書にこう書いている。

 「初めから詰問調であった。 『なぜベントをやらないのか』 という趣旨だったと思う。 怒鳴り声ばかり聞こえ、話の内容はそばにいてもよく分からなかった」

 『何のために俺がここに来たと思っているのか』 と総理の怒声が聞こえた。 これはまずい。 一般作業員の前で言うとは」

 当時、菅氏の周辺は盛んに 「ベントの指示を出したのに東電がなかなかやらなかった」 との情報を流していた。 だが、その間の事情を知る官邸筋は明言する。

 「それは 大嘘 だ。 むしろ官邸側は 東電に、 『何事も指示なく勝手に進めるな』 『官邸の了解なしに判断するな』 と指示 していた」

 


退

 3月14日夜、2号機原子炉の破損を懸念した吉田所長が東電本店に 「必要な人員を残して作業員を敷地外へ退避させるべきだ」 と相談した際にも、 「伝言ゲーム」 の過程で誤解が生じた。

 これを官邸側は 「東電が全面撤退」 と受け取り、菅氏は15日午前4時ごろに清水正孝社長を官邸に呼び出した。 清水社長は 「そんなことは考えていない」 と明確に否定したが菅氏は納得せず、午前5時半ごろに東電本店に乗り込み、再び怒鳴り散らす。

 「いったい、どうなっているんだ! あなたたちしかいないでしょ。 撤退などありえない。 撤退すれば東電は百パーセントつぶれる」

 このとき、菅氏は大勢の東電社員が徹夜で作業を続けていたオペレーションルームを会議室と勘違いし、こんな怒声も上げた。

 「こんなにいっぱい人がいるところじゃ、物事は何も決まらないんだ。 何をしているんだ!」

 その場は同席者が何とか収め、菅氏を別部屋に案内したが、菅氏は結局3時間11分も居座り作業を邪魔した このときも、菅氏周辺から 「全面撤退を菅さんが体を張って止めた」 「菅さんが首相でよかった」 などという情報、コメントがまことしやかに流された。

 だが、東電の勝俣恒久会長は3月30日の記者会見で明確にこう否定している。

 「施設にいた800人を超える職員のうち、直接、発電所の運転に関わらない半数の作業員は退去を考えたが、全員を退去させるということは決してなかった」




 中間報告は、政府が緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム 「SPEEDI」 を活用していれば、 「住民はより適切な避難経路を選べた」 と指摘している。

 中間報告にはないが、官邸筋によると このSPEEDI情報の公開をストップしたのが当時の枝野幸男官房長官 だった。

 「情報はどこかで一元化して勝手に出さないように!」

 枝野氏が原子力安全・保安院などにこう指示 した3月17日のデータでは、後に全村避難を余儀なくされた福島県飯舘村で 「相当な数字が出ていた」 (官邸筋)。

 官邸筋は、福山哲郎官房副長官( 当時 )が後に官邸内で 「( 枝野 )官房長官が 『情報管理を徹底しろ』 という趣旨のことを言ったにしても、ちゃんと必要な情報は公開すべきではなかったか」 と議論していたのを記憶している。

 昨年12月には、この政府の事故調とは別に国会に事故調査委員会が設けられた。 国会の事故調は、国政調査権に基づき証人喚問や資料提出を要請できるため、菅氏らの聴取が実現するかが焦点だ。

 調

 みんなの党の渡辺喜美代表のこの主張通り、二度と悲劇と愚行を繰り返さないため全容解明が待たれている。





( 2012.01.21 )

  


 東京電力福島第1原発事故で作業員全員が退避せざるを得なくなった場合、放射性物質の断続的な大量放出が約1年続くとする 「最悪シナリオ」 を記した文書が昨年3月下旬、当時の菅直人首相ら一握りの政権幹部に首相執務室で示された後、 「なかったこと」 として封印され、昨年末まで公文書として扱われていなかった ことが21日分かった。 複数の政府関係者が明らかにした。

 民間の立場で事故を調べている福島原発事故独立検証委員会( 委員長・北沢宏一前科学技術振興機構理事長 )も、菅氏や当時の首相補佐官だった細野豪志原発事故担当相らの聞き取りを進め経緯を究明。




( 2012.02.29 )


 
 

【原発民間事故調報告書】
パニックと極度の情報錯綜 「やめた方がいいですよ」 枝野氏は菅首相にダメ出していたが …
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120228/plc12022800190001-n1.htm
( 2012.02.28 )
 福島原発事故独立検証委員会( 民間事故調 )の報告書から浮かび上がるのは、 「パニックと極度の情報錯綜さくそう」 ( 報告書 )に陥り、 「テンパッた」 ( 同 )状況となった当時の菅直人首相や官邸中枢が、現場に無用な混乱を招き、事故の危険性を高めた実態だ。 調査の結果、菅氏による 「人災」 が証明されたといえる。

 「厳しい環境の中でやるべきことはやった。 一定の達成感を感じている」

 菅氏は昨年8月の首相退陣表明の記者会見でこう自賛した。 だが、報告書が指摘するのはむしろ、やるべきでないことばかり繰り返した菅氏の姿だ。

 報告書によると菅氏が東日本大震災発生翌日の3月12日早朝、東京電力福島第1原発を視察することに、当初は枝野幸男官房長官( 当時 )も海江田万里経済産業相( 同 )も福山哲郎官房副長官( 同 )も反対だった。

 ところが、 「言い出したら聞かない」 ( 報告書 )菅氏は視察を強行する。 視察に同行した班目春樹原子力安全委員長は現地に向かうヘリ機中で種々の懸念を説明しようとしたが、菅氏は 「俺は基本的なことは分かっている。 俺の質問にだけ答えろ」 と聞く耳を持とうとしなかった。

 また、菅氏は第1原発に代替バッテリーが必要と判明した際には、自分の携帯電話で担当者に 「大きさは」 「縦横何メートル」 「重さは」 などと質問し、熱心にメモをとっていた。 同席者は 「首相がそんな細かいことまで聞くというのは、国としてどうなのかとぞっとした」 と述べたという。

 菅氏が官僚機構に不信を抱き、セカンドオピニオンを求めるために3月中に次々と6人もの内閣官房参与を任命した ことには、当時からメディアで 「船頭多くして船山にのぼる」 という批判が強かった。 この点について枝野氏は事故調に 「常に 『やめた方がいいですよ』 と止めていました」 と証言した。 官邸中枢スタッフもこう述べている。

 「何の責任も権限もない、専門知識だって疑わしい人たちが密室の中での決定に関与するのは、個人的には問題だと思う」

 菅氏が原発事故の初期段階以降も他の閣僚や事務レベルに適切な権限委譲を行わず、引き続き直接的な関与を続けたことへの批判も指摘されている。

 「( 政府と東電の )統合本部の士気を低下させるから、なるべく菅さんが出てこないように言ってほしいと何人かから頼まれた」

 これは官邸スタッフの言葉だ。 同様の証言は報告書を待つまでもなく、当時から枚挙にいとまがない。

 報告書は 「菅首相の個性が政府全体の危機対応の観点からは混乱や摩擦の原因ともなったとの見方もある」 と指摘する。 ただ、これは 「前首相」 に一定の配慮を示した控えめの表現だろう。

 パニックと極度の情報錯綜 → 「テンパッた」 状況の菅直人首相・官邸中枢は無用な混乱・事故危険性を高めた。 菅の 「人災」 を証明。
【原発民間事故調報告書】
3月15日が 「運命の日」 SPEEDI生かせず 国の失態を批判
 SPEEDIは原発立地維持と、住民の安心買う見せ玉。 避難住民被曝低減の為の活用無かった。
【原発民間事故調報告書】
「後進国なら菅氏は死刑」 溝手氏、事故調報告受け
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120229/stt12022907270002-n1.htm
( 2012.02.29 )
 自民党の谷垣禎一総裁は28日の役員会で、東京電力福島第1原発事故をめぐる菅直人前首相の対応について 「人災の様相も出てきた」 と批判した。

 溝手顕正参院幹事長も同日の記者会見で、福島原発事故独立検証委員会( 民間事故調 )報告書に触れ、 「後進国だったら裁判にかけ、死刑という話につながりかねない大変な話だ」 と述べた。

 石原伸晃幹事長は、菅氏らは国会の事故調査委員会( 黒川清委員長 )で、当時の対応を説明すべきだとの考えを示した。

 先進国でも死刑だろう。 パニックと極度の情報錯綜に陥り、テンパッた菅直人首相官邸中枢が、現場に無用な混乱・事故の危険性を高めた。 菅氏による 「人災」 が証明。


【原発民間事故調報告書】
菅直人前首相、民間事故調の報告書に評価コメント
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120229/dst12022907290002-n1.htm
 菅直人前首相は28日、民間事故調の報告書について、 「今回の原発事故において最も深刻だったのは、3月15日未明からの 『東電撤退』 をめぐる動きだった」 とした上で、菅氏が撤退を拒否したことを、事故調が 「今回の危機対応における一つのターニングポイント」 と結論付けたことなどについて 「大変ありがたいと感じています」 と評価するコメントを発表した。

 それを いけしゃあしゃあと、 「コメント」 するなんざぁ。 スッカラ菅、スッカリ頭がおかしくなったか。


【放射能漏れ】
民間事故調が 「最悪シナリオ」 公表 政府の情報操作 鮮明
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120229/dst12022900500000-n1.htm
福島原発事故独立検証委員会(民間事故調)が検証報告書を発表 会見した北澤宏一委員長(前科学技術振興機構理事長)ら
 東京電力福島第1原発の事故を民間の立場から検証し、調査報告書を公表した 「福島原発事故独立検証委員会( 民間事故調 )」 ( 委員長・北沢宏一前科学技術振興機構理事長 )は28日、都内で記者会見し、菅直人首相( 当時 )が原子力委員会の近藤駿介委員長に作成を依頼した 「最悪シナリオ」 の全容を公表した。

 報告書では、 「( 同シナリオは )官邸中枢でも回収され、秘密に伏された」 と指摘しており、 政府による意図的な “情報操作” の事実 が改めて示された形だ。

 北沢委員長らは同日、首相官邸を訪れ、野田佳彦首相に報告書を手渡した。

 公表した 「最悪シナリオ」 は1、2、3号機の原子炉や1~4号機の使用済み燃料プールから放射性物質が放出されたと仮定。 強制移転区域は半径170キロ以上、希望者の移転を認める区域が東京都を含む半径250キロ以上に及ぶ可能性があるというもの。

 「最悪シナリオ」 は事故後に被害拡大の危機感が高まる中で作成が検討された。 当時のイメージについて、枝野幸男官房長官( 当時 )は事故調に対し、 「1( 福島第1 )がダメになれば2( 福島第2 )もダメになる。 2もダメになったら、今度は東海( 日本原電東海第2原発 )もダメになる、という悪魔の連鎖になる」 と証言した。

 こうしたイメージを具体的に形にしたのが 「最悪シナリオ」 だが、閲覧後は直ちに回収されたという。 どういった経緯で 「秘密に伏された」 のかは今も不明で、北沢委員長は 「今後の検証課題だ」 と述べた。

 北沢委員長は日本の原子力安全規制についても触れ、2001年の米中枢同時テロ以降、米国では、 「B5b」 と呼ばれる安全対策が整備され、日本にも助言があったが、安全当局が無視していた点を問題視した

 対策が充実されていれば、事故の被害拡大を防げた可能性があったが、北沢委員長は 「( 原発の )安全神話により、100%安全なものにこれ以上安全対策が必要なのかという論理が原発安全の努力を妨げ、安全規制が 『ガラパゴス化』 していた」 と説明した。

 カルト・民主政権は最悪のシナリオ隠蔽。 米国の 「B5b」 と呼ばれる安全対策について、日本にも助言があったが、安全当局が無視した。
 る。
 






  


 ひたすら続く菅直人首相( 当時 )の怒声、困惑する官邸スタッフら …。 東京電力福島第1原発事故をめぐり、民間の有識者による 「福島原発事故独立検証委員会( 民間事故調 )」 が27日に公表した事故報告書。 政府の対応を 「稚拙で泥縄的な危機管理」 と指弾 した内容からは事故直後の緊迫した状況の中、政府首脳が右往左往する当時の様子が克明に浮かび上がった。

報告書評価

首相の要請がベントの早期実現に役立ったと認められる点はない

 混乱が際立ったのは昨年3月11日午後9時ごろだ。 原子炉の冷却ができなくなったことから圧力が上昇。 官邸と東電は炉内のガスを放出する 「ベント」 の準備を始めた。 しかし、12日午前5時になってもベントが実施されないことを知った菅首相は、自衛隊ヘリで福島第1原発に向かう。

 枝野幸男官房長官( 同 )は 「絶対に後から政治的な批判をされる」 と反対したが、菅首相は 「政治的に後から非難されるかどうかと、この局面でちゃんと原発をコントロールできるのとどっちが大事なんだ」 と反論。 枝野氏は 「分かっているならどうぞ」 と送り出した。

 この頃、福島第1原発では、菅首相の突然の訪問について、吉田昌郎所長( 同 )が東電本店に難色を示した。 「私が総理の対応をしてどうなるんですか」

 午前7時すぎ、菅首相が現地に着くと、いきなり武藤栄副社長( 同 )に詰問調で迫った。 「なぜベントをやらないのか」。 電力がないことを説明した武藤副社長に菅首相は 「そんな言い訳を聞くために来たんじゃない」 と怒鳴り散らした。

 菅首相を鎮めたのは吉田所長の一言だった。 「決死隊をつくってでもやります」。 納得し、官邸へ引き揚げる菅首相。 「吉田という所長はできる。 あそこを軸にしてやるしかない」

 しかし実際にベントが行われたのは午前9時を過ぎてから。 東電は10キロ圏内の住民避難完了後にベントをすることにしていたが、枝野官房長官がこの事実を知ったのは数ヵ月後だった。


報告書評価

官邸の中断要請に従っていれば、作業が遅延していた可能性がある危険な状況であった

 同12日午後3時36分、1号機原子炉建屋が水素爆発する。 約1時間後、首相執務室に寺田学首相補佐官が駆け込んできた。 テレビのチャンネルを変えると、建屋が爆発、白煙が上がる映像が流れた。

 「爆発しているじゃないですか。 爆発しないって言ったじゃないですか」。 驚く菅首相に、そばにいた原子力安全委員会の班目春樹委員長は 「あぁ~」 と頭を抱えるしかなかった。

 同午後5時55分に海江田万里経済産業相( 同 )は原子炉冷却のために海水注入を指示し官邸の会議で報告。 ところが菅首相は 「分かっているのか、塩が入っているんだぞ。 影響を考えたのか」 と議論を引き戻した。

 さらに班目氏に対して核分裂が連鎖的に起きる 「再臨界」 の可能性を問いただすと、返答は 「ゼロではない」。 菅首相は 「大変じゃないか」 と再臨界防止方法の検討も指示した。

 会議参加者の間では既に、早急な海水注入が必要との認識で一致していた。 「今度失敗したら大変なことになる」。 菅首相に疑念を抱かせないように、次の会議に向け、各自の発言内容の確認と入念なリハーサルが行われる “茶番” も繰り広げられた。

 このとき、既に福島第1原発では海水注入が開始されていた。 東電本店は電話で吉田所長に 「首相の了解がまだ取れていない」 と、中断を要請したが、吉田所長は独断で海水注入を継続した。




( 2011.11.10 )

“問題発言”






 おととい( 11月6日 )、枝野幸男前官房長官は、言ってはならないことを言ってしまったようだ。
 衆議院予算委員会の席上、自民党の村上誠一郎衆議院議員の質疑に対する答弁の中で、枝野氏の問題発言は明らかになった。

 「わたくしは3月11日からの最初の2週間で、39回の記者会見を行っておりますが、そのうち 『ただちに人体、健康に害が無い』 ということを申し上げたのは全部で7回でございます。 そのうちの5回は食べ物、飲み物の話でございまして、一般論としてただちに影響がないと申し上げたのではなくて、放射性物質が検出された牛乳が1年間飲み続ければ健康に被害を与えると定められた基準値がありまして、万が一そういったものを一度か二度摂取しても、ただちに問題ないとくり返し申し上げたものです」

 
 仮に、一般論としての述べたのでなければ、なぜ一般論として報じ続けたテレビ・新聞などの記者クラブメディアに抗議を行わないのか。

 それこそ、国民の健康に害が及ぶ可能性のある 「誤報」 に対して、速やかな訂正を求めるのは政治家として当然の義務ではないか。 しかも、それは自分自身の発言が根拠になっているニュースでもある。 枝野氏が本当に、そう思っているのならば、大手メディアに対して訂正要求があってしかるべきだ。
 ところが、実際は、枝野氏はまったく逆のことをしでかしている。




 枝野氏は当時、大手メディアではなく、内部被爆の危険性を指摘したジャーナリストたち、とりわけ自由報道協会所属のフリーやネット記者たちの報道を 「デマ」 だと断定し、取り締まるよう宣言したのだった。
 枝野氏こそ 「安全デマ」 「安心デマ」 を広めて、多くの国民を被曝させた張本人ではないか。 何をいまさら、と情けなくなってくる。


 いつものように、マスコミの罪はいうまでもない。 枝野氏の 「デマ」 をそのまま報じ、結果として多くの読者や視聴者を被爆させたのは疑いのない事実だ。 マスコミの結果責任は、問われなければならない。 だが、記者クラブ制度のある日本ではその望みも薄いだろう。

 よって、私たち日本人は、今後発生するであろう健康被害に関しては 「泣き寝入り」 するしかないのであろうか。

 枝野氏の 「ただちに影響はない」 という言葉は、震災直後、一種の流行語になった。 その言葉を信じて、被爆してしまった国民がいったいどれほどいることだろうか。 放射能の健康被害が明らかになりはじめる4、5年後を考えるだけで背筋が凍る思いである。

 さらに酷いのは、テレビなどに登場していた有識者たちだ。 未曾有の犯罪的行為を行った政治家を 「不眠不休でがんばっている」 と持ち上げたテレビコメンテーターや評論家たちがなんと多く存在したことか。 その行為ははっきり言って愚かという言葉しか当てはまらない。

 ツイッター上でも 「枝野寝ろ( #edanonero )」 というハッシュタグを通じて、枝野氏を英雄視する論調が広まった。 それこそが風評の伝播という行為であるとも知らずに ――


!?

 枝野氏はおとといの予算委員会の答弁の中で、改めて 「これは 『基準値超えの食品を一度か二度摂取した場合』 に限られる」 と説明し直している。

 では、枝野氏に言いたい。 なぜ、当時、そのように説明しなかったのか。 その同じ口からは一切そんな言葉は発せられなかったではないか。

 もちろん、問題は7回という回数ではない。 放射能漏れによる食品汚染に不安を抱く国民に、結果として間違った情報を与えたことが問題なのだ。

 何度も繰り返すが、政治はすべて結果責任である。

 判明したデータを淡々と発表するのならば、それは官僚の仕事にすぎない。 枝野氏は政治家ではなかったのか。 予防的措置も採ることができる政治家ではなかったのか。

 言い訳はいらない。 自らの行動に責任が生じていることを示すためにも、なにより福島県民を代表とする日本国民を被爆させた結果責任からも、政治家としての出処進退は自ら決めてほしい。

 仮に、枝野氏が良心を残しているとしたら、今回の答弁だけでも訂正してほしい。 それが個人的にももっとも信頼していた政治家へのお願いである。


 東日本大震災で犠牲となられた方々は、今、どういう思いでこの国を見ておられるか、考えました。
 私達は、彼らに恥ずかしくない生き方を出来ているかどうか。
 巷では、インターネット上に 「日本死ね」 などと書き込む不心得者や、そんな便所の落書きをおだてる愚かなマスコミ、便所の落書きにいちいち振り回される愚かな政治家があとをたちません。
 事情はどうあれ、 「死ね」 というほど日本が嫌なら、日本に住まなければ良いのです。
 たった5年前の震災で2万人近くの方が無念のうちに命を落とされたにもかかわらず、よくも 「日本死ね」 などという暴言を思いつくものです。
 右往左往する票乞食たちもみっともない。 無視すればいいだけの話ではありませんか。
 だいたい、イクメン議員をもてはやした連中と、 「日本死ね」 を持ち上げている連中は、面子がほぼ同じです。 このことがすべてを物語っています。

( 田中ゆうたろうブログ 「震災犠牲者に恥じない日本を」 より )




( 2012.01.23 )

 


 今夏の電力需給について 「全国で約1割の不足に陥る」 と公表した昨夏の政府試算について 「供給不足にはならない」 という別の未公表のシナリオが政府内に存在したことが、分かった。 公表した試算は、再生可能エネルギーをほとんど計上しないなど実態を無視した部分が目立つ。 現在、原発は54基中49基が停止し、残りの5基も定期検査が控えているため、再稼働がなければ原発ゼロで夏を迎える。 関係者からは 「供給力を過小評価し、原発再稼働の必要性を強調している」 と批判の声が上がっている。




 公表された試算は、東京電力福島第1原発事故を受け、エネルギー戦略を見直している政府のエネルギー・環境会議が昨年7月にまとめた。 過去最高の猛暑だった10年夏の需要と全原発停止という想定で、需要ピーク時に9.2%の供給不足になると試算した。

 この試算とは別に、菅直人首相( 当時 )が昨年6月下旬、国家戦略室に置いた総理補佐チームに、電力需給の実態把握を指示。 経済産業省に対して、発電所ごとの設備容量・稼働可能性、地域ごとの再生可能エネルギーの稼働状況など、試算の根拠データの提出を求め、再試算させた。

 その結果、現在の法律に基づいて電力会社が調達できる再生可能エネルギー容量は759万キロワット( 原発約7基分 )あったのに、公表された試算は供給ゼロだった。 また、一部火力発電所で定期検査による稼働停止時期を猛暑の8月に設定したり、大口契約者への格安電気料金と引き換えに需給逼迫時の利用削減を義務づける 「需給調整契約」 による削減見込みもゼロとしていた。 夜間の余剰電力を昼間に利用する 「揚水発電」 の供給力も低めに設定されていた。

 再生可能エネルギーによる電力供給などを盛り込むシナリオで計算し直すと、電力使用制限令を発動しなくても最大6.0%の余裕があった。 再試算は昨年8月にまとまり、菅首相に報告されたが、公開されなかった。

 国家戦略室で同会議を担当する日下部聡・内閣審議官は 「国の政策を決定する過程で、後になって 『足りませんでした』 とは言えない。 慎重に堅い数値をまとめた。 供給不足を導く意図はなく、昨年11月に公表した対応策で、再生可能エネルギーや火力発電の増強を必要な取り組みに挙げた」 と説明する。 一方、国家戦略室の総理補佐チームで再試算に携わった梶山恵司・富士通総研主任研究員は 「電力会社の言い分をまとめた極端な前提に基づく試算。 その数字が、原発再稼働を容認する政治家らの発言にもつながった。 再試算は菅政権末期の混乱で公表できなかったのではないか」 と問題視している。




 いんぺいねつぞうかいざん
  
 
 鹿
 
 





( 2012.04.03 )

SPEEDI

 東京電力福島第1原発事故で、昨年3月15日、放射性物質の拡散予測データ 「世界版SPEEDI」 の試算結果で、千葉市内で計測されたヨウ素を基に推計した 同原発からの放出量が毎時10兆ベクレルという高い値が出ていた にもかかわらず、文部科学省と原子力安全委員会の間で十分な連携が取られず、現在も公表されていない ことが3日、分かった。
 文科省や安全委によると、世界版SPEEDIは放出される放射性物質の拡散状況を半地球規模で予測するシステム。 日本原子力研究開発機構が同システムを運用しており、昨年3月も文科省の依頼を受け、試算を行っていた。
 それによると、昨年3月14日午後9時ごろに福島第1原発から放出されたヨウ素の量は毎時10兆ベクレル、セシウム134、137もそれぞれ同1兆ベクレルと推計された。
 この試算データの評価について、文科省は安全委の担当と判断し、同16日に安全委へデータを送るよう同機構に指示した。 同機構はメールに添付して送信したが、安全委は重要情報と認識せず、放置 したという。 同様にデータを受け取っていた 文科省も、安全委に公表するよう連絡しなかった

( 2012.07.28 )
SPEEDI公表義務問題

   文科相発言撤回 虚偽答弁の恐れ


「安全委への運用移管、合意なかった」

 東京電力福島第1原発の事故後、放射性物質の拡散を予測する緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム 「SPEEDI」 のデータ公表が遅れた問題で文部科学省は27日、運用・公表を内閣府原子力安全委員会に移すことで事故直後に官邸と合意したとする従来の主張を撤回した。 東日本大震災への対応を自己検証した最終報告書で明らかになった。

 文科省はこれまで、SPEEDIの運用主体が公表義務も同時に負うと説明しており、運用する文科省が、公表義務を負っていたことを事実上認めた。

 平野博文文科相は今年3月の参議院予算委員会で 「昨年3月16日、当時の官房長官からの指示でSPEEDIの運用は安全委が行うことになった」 と述べ、公表義務は安全委側にあったと説明している。 事実と異なる答弁をしており、国会で追及されるのは必至だ。

 SPEEDIは事故時の放射性物質の拡散を予測し、避難に役立てるシステムで、文科省が所管している。 福島第1原発事故では、原発から20キロ圏の警戒区域の避難がほぼ完了した昨年3月23日に初めて試算結果が公表され、住民の避難に全く活用されなかった。

 公表の遅れについて批判された文科省は、これまで 「昨年3月16日に官邸で行われた協議で、SPEEDIの運用・公表は安全委に移管することで合意しており、公表義務は安全委にあった」 と説明。 これに対し安全委は 「協議ではSPEEDIの 『ス』 の字も出ておらず、移管された事実はない」 ( 班目春樹委員長 )と真っ向から反論。 責任の所在をめぐって、なすり合いが続いていた

 文科省の最終報告書は 「官邸で整理された( 放射線量を監視する )モニタリング関連の役割分担方針に、具体的にSPEEDIについては明示されていなかった」 と記載。 安全委への移管に関する合意は存在しなかったことを認めた。

 同省の田中敏総括審議官は 「官房長官の指示内容を精査した結果、SPEEDIについて記載された文書は一切なかった」 とした上で、 「モニタリングの評価を行う安全委が、評価の一環としてSPEEDIの運用も行うと当時、( 幹部が )解釈したのだろう。 文書で手続きをしなかったのが大きな反省点。 文科相の国会答弁も適切な表現ではなかったかもしれない」 と話した。




( 2012.04.04 )

 


 昨年3月の東京電力福島第1原発事故発生時、首相官邸と経済産業省原子力安全・保安院、現地のオフサイトセンター、自治体などを結ぶ国の専用回線に、首相官邸のテレビ会議システムが接続されていなかったことが3日、分かった。

 官邸では訓練の時だけつないでおり、事故時に誰も接続作業をしなかった。 システムは平成11年に起きた東海村臨界事故を受けて整備し、回線の維持費は年間計5億~6億円。 福島事故では放射性物質の拡散予測システムを活用しなかったことが判明 しており、巨額の費用で整備した防災システムを生かさなかった事例がまた表面化した。

 システム機材は、事故対応に当たる官邸地下の危機管理センターではなく4階の会議室に置いてあり、接続作業は原子力安全基盤機構と内閣官房が担当。 機構の担当者は 「オフサイトセンターの支援などに追われ、思いつかなかった。 官邸や保安院から要請もなかった」 とし、内閣官房は 「保安院の職員が官邸に詰めて電話やファクスで連絡を取っていた。 必要なかったか余裕がなかったか、使わなかった理由は分からない」 と説明。 常時接続するよう改めるという。






   


   調調
    ※ 政府事故調査委員会ヒアリング記録

   http://www.cas.go.jp/jp/seisaku/icanps/

調調  
   http://www.naiic.jp/

調  
   http://rebuildjpn.org/

 

 



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( 2013.03.14 )


 あの日から2年か。 日本人誰もがあの日、あの時、どこで何をしていたか、ご記憶であろう。

 3月11日は1万5千人以上の日本人の命日でもある。 三回忌という節目に合わせ、ここしばらくは被災地めぐりである。 復興にも地域差が見られるが、沿岸部のホテルや旅館も徐々に再開し出した。

 というのに、全く泊まれんやないか。 三回忌に合わせ、東北地方以外の遺族の皆様がこの地を訪れているというのもあるが、テレビのクルーの皆様がどっさあーりと押さえてしもうとるのである。 普段はスタジオであたりさわりのないコメント出すだけの有名ジャーナリストやキャスターもこの日だけは、たまには取材してまっせ、と言いたいがためにゾロゾロ、スタッフ引き連れて来とるのである。 そんな著名な方々にザコ寝はさせられんと、便利なホテルから埋まっていったのである。

 それでもこの地にやってくるだけマシである。 被災地の現場で食堂ですら毎日、毎度同業者と顔を合わせるほど、各社、各局、東京から各支局からこの東北3県へ押しかけているのである。

 しかし … おかしい。 国会議員のセンセイとトンと顔を合わせんのである。 特に元議員も含めてあれほど 「被災者の気持ちになって」 だの 「絆」 だの、口だけではコイていた前政権のセンセイ方の声が全く聞こえてこんのである。

 3月9、10日は土、日やで。 11日は東京で両陛下も出席される政府主催の追悼式が行われたけど、土、日は地元にでも帰っとったんか?

 震災翌日には周りが止めるのも聞かんと、福島に乗り込んでいった元首相も、お遍路行っても、被災地行脚は怖いか。 反原発の活動家の気持ちは分かっても日本人の心はないんや。

 落選が怖くて立候補せんかった元首相も今はヒマやろ。 月1千万円以上のお小遣いをくれたお母様が亡くなられ、どれほど遺産相続をされたかは知らんが、北京には自費で行って丸め込まれてきても、地元・北海道より近い東北3県の国民の声は聞こえてこんか。


( 2016.02.29 )


 2011年3月11日、東北は悲惨の極地と化した。 あの時、政治は民主党政権の下、自民党など野党との大連立構想が浮上し、消えた。 空前の規模の復興予算編成は、政局という激烈な痛みを伴った。 そして、東京電力福島第1原発事故。 事態は政治の機能不全をあざ笑うように深刻の度を深めていった。 未曽有の危機に遭遇した2011年の政治を振り返る。

 

 首相菅直人は3月19日、自民党総裁谷垣禎一と電話会談し、復興に与野党一体で取り組むため、政権に加わるよう提案。 谷垣に入閣を求めた。 谷垣は即拒否した。 大連立構想はその後もくすぶり続けた。
 密命を帯びた伝言が永田町を走った。
 震災から1週間の18日夜、首相補佐官寺田学( 衆院秋田1区 )は、菅から谷垣へのメッセージを使者に託した。
 「首相が一対一で会いたいと言っている」。 メッセージに込められた重みを察した谷垣は 「あす、党本部の代表電話にかけてくれればいい」 と応じた。
 危機に直面した官邸。 強力な政権の構築を求める空気が政界を覆っていた。
 密命を預かった寺田は、谷垣が民主、自民の大連立に前向きとの情報を得ていた。 寺田は菅が 「助けてくれ。 救国内閣をつくろう」 と低姿勢で接する場面を想像した。
 19日午後、官邸執務室から自民党総裁室に電話がつながった。 2者会談の了承を取り付けるだけの段取りだったが、菅は谷垣に副総理での入閣要請にまで踏み込んだ。 「手伝うのは当然だろう」 と言わんばかりの菅。 うんざりした谷垣は即座に断った。
 「首相が頭を下げていれば違っていた。 露払いが必要だった。 自分も政治的熟度が足りなかった」。 寺田は 「大連立が成立していれば、今の 『1強多弱』 の政界構図も異なっていたのでは …」 と悔やむ。
 その頃。 被災地では、死者が戦後最悪の6911人に達したことが判明。 福島第1原発は1、3号機が爆発。 炉心溶融が始まっていた。


調 

 首相菅直人率いる民主党政権は死に体だった。
 2010年参院選の民主党大敗で 「ねじれ国会」 が出現。 野党・自民党の攻勢は厳しく、内閣支持率は20%前後に沈んでいた。
 3月11日午前、菅は参院決算委員会で在日韓国人からの違法献金を認めた。 内閣総辞職か衆院解散か ──。 政局が沸点に差し掛かったその時、震災は起きた。
 「政治休戦だ。 与野党の枠を超えて復旧に取り掛かろう」。 公明党幹事長井上義久( 衆院比例東北 )の呼び掛けに、15日開かれた幹事長国対委員長会談は意見が一致した。
 官邸は混乱を極めた。 「市町村長とのネットワークは自民が圧倒的に上だ」。 党副総裁大島理森( 衆院青森3区 )は、被災地の要請を伝え続けた。 民主党代表代行仙谷由人が官房副長官として官邸入りすると頻繁に連絡を取った。 「あんたが官邸をこね回して、どんどんやらんと」。 与野党に協調機運が高まった。
 菅、谷垣の電話会談決裂後も、民主は自民に秋波を送り続ける。
 民主党国対委員長安住淳( 衆院宮城5区 )は、自民党国対委員長逢沢一郎らと接触。 「期限を区切った限定連立はどうか」 と持ち掛けた。 「野党が被災者の不満を吸収してしまったら、政府批判が強まる」。 安住は不安に駆られていた。
 大連立には、野党に連帯責任を負わせる意図もうかがえた。 「辞任寸前だった首相が延命しようとしている」。 党国対副委員長小野寺五典( 衆院宮城6区 )は正面から反対論を唱えた。
 大島も谷垣に進言し続けた。 「信頼関係が首相とは希薄だ。 一種の閣外協力でいい」。 4月7日、谷垣は記者会見し、大連立拒否を表明した。
 政局は対決モードに回帰し始めた。
 「これで本当に国難から復興できるのか。 トップが交代する選択肢もあるかと思う」。 当初は協力姿勢だった井上も同15日、菅退陣に触れた。
 政局に踊らされた大連立は不要だったのか?
 「復興のスピード感が違っただろう」 と惜しむ寺田。 大島は 「批判は受け止めるが、予算化の作業がそれほど遅れたとは思わない」 とみる。
 破局的な大災害を乗り切る政治の理想型は何か。 答えは今も見つかっていない。


 

 復興予算は2011年度、4次にわたる補正で編成された。 2次は十数兆円規模が見込まれたが、菅直人首相の福島第1原発事故対応への野党の批判、財源をめぐる民主党内の内紛で縮小。 本格復興予算の成立は、11月21日だった。
 死に体の政権が迷走を始めた。
 「こんな中途半端なことをして、大事なことが先送りされては本末転倒だ」
 6月16日、財務省。定例記者会見の席上、財務副大臣桜井充( 参院宮城選挙区 )は批判の切っ先を首相菅直人に向けた。
 菅は5月、桜井らへ2兆円規模の第2次補正予算案編成を指示した。 省内では本格復興に向けた10兆円超の大型補正予算案の編成に動きだしていた。 ようやく見えてきた復興の道筋。 そこに降って湧いた、いわば 「1.5次補正」。 段取りは狂った。
 5月の大型連休明けだった。 津波の爪痕が生々しい被災地に、財務事務次官勝栄二郎ら省幹部が立った。 阪神大震災を基に復興の枠組みを作ろうとする省内の空気に桜井はいら立っていた。 「阪神とは違う。 自分たちの目で被災地を見てこい」。 視察を終えた勝らは 「東京で議論しても意味がないことが分かった」 と報告した。
 潮目が変わった、と桜井は感じた。 本格補正へ財務省の作業は加速していた。
 閣内にいる桜井が酷評した2次補正には、 「6月政局」 が複雑に絡み合っていた。
 自民党など野党は、菅を完全に見限っていた。 5月下旬、野党は内閣不信任決議案の検討に入った。 国会は政局一色になる。
 大規模補正を渇望する被災地を尻目に、民主党内の抗争も勃発した。 元代表小沢一郎( 衆院岩手4区 )らは不信任案同調を示唆。 もはや、復興どころではなくなった
 6月2日、不信任案が衆院に提出された。 採決前、菅は退陣の意向を表明。 小沢らは採決を棄権、分裂は寸前で回避された。
 2次補正は、菅に残された数少ない延命のカードだった。 閣議決定の当日、復興対策担当相松本龍は、宮城県知事村井嘉浩らへの放言をめぐり辞任した。


 

 「復興が遅い」。 がれきに埋もれた被災地には、政治への不満が渦巻いていた。 初夏を迎えても、政府与党の動きにスピード感はなかった。
 復興の青写真を描く政府の復興構想会議は4月11日に発足した。 6月をめどに被災地の未来像や必要な立法・予算措置をまとめる役割を担った。 「復興をどうするかという議論をお願いしている途中で、予算付けをするわけにはいかない」。 財務相だった野田佳彦は、今も原則論を口にする。
 地元・気仙沼市が壊滅状態になった自民党宮城県連会長小野寺五典( 衆院宮城6区 )は歯がみする思いだった。 気仙沼での光景が忘れられない。 会議議長五百旗頭真らが宮城県入りした5月4日。壊滅した魚市場を訪れながら、一行はバスから降りることはなかった。 「だから体育館に寝ている避難者がいる時、鎮魂の森などという話が出てくる。 復興構想会議が復興の妨げになっている」
 提言は6月25日に決定した。 復興財源として臨時増税を明記。 3日後、政府は復興基本方針を検討する震災復興対策本部を初めて開いた。
 臨時増税の規模は10兆円とされた。 党内抗争が再び始まった。 反発する勢力は勢いを増し、政府に削除要求を突き付けた。 政権末期の菅に、もはや反対論を抑える求心力はなかった。
 9月2日、野田内閣が発足した。 数日後、東京・赤坂プリンスホテルに野田ら政府与党と財務省の幹部が集結した。 財務相安住淳( 衆院宮城5区 )が切り出す。 「足の長い財源が必要だ。 国民も所得税と法人税の増税を理解してくれる」
 政権発足直後の世論調査では、6割近くが復興増税に賛成だった。 菅が去り、与野党の対決色は小康状態だった。 財源がやっと固まった。
 震災発生から8ヵ月。 本格復興に向けた総額12兆円の第3次補正予算が成立した。
 安住は 「8月にお金を与えても各自治体は復興計画ができていなかった。 遅れたというのは政治的悪口だ」 と言い切る。 復興対策担当相平野達男( 参院岩手選挙区 )は 「遅いと言われれば遅かった」 と受け止めつつ、 「政権の最大の失敗は、復興のさなかに政争をしてしまったこと。 政治家としての姿勢が問われた。 疑われた」 と回顧する。
 悪夢の年が暮れていった。 被災地に刻み込まれた記憶。 それは 「決められない政治」 だった。


 

 野田佳彦首相は2011年12月16日、東京電力福島第1原発事故に関し 「原子炉は冷温停止状態に達し、事故そのものが収束に至った」 と表明。 事故収束への工程表 「ステップ2」 完了を宣言した。 原発被災者は激しく反発した。
 誤解と矛盾に満ちた政治宣言だった。
 「何が収束宣言だ。 本当に現場を見て、そんなことを言っているのか」
 原発事故で2万1000人余りの全町避難を強いられた福島県浪江町。 町長馬場有は、開いた口がふさがらなかった。
 除染、賠償、健康管理。 馬場は政府や東電と連日のように激しくやり合っていた。 「やっぱり事故は終わったんだと。 避難した住民が戻るためには、安全だと言いたかったのだろう」
 地元無視の詭弁きべん ──。 古里を追われた避難者約16万人の政治不信は増幅した。 馬場は直ちに二本松市の仮役場で記者会見し、政府批判を展開。
 福島県議会は撤回を求める意見書を全会一致で可決した。
 政府にとっても、 「収束」 宣言は危険な賭けだった。 野田に直言したのは、原発事故担当相細野豪志
 細野の脳裏には、24時間体制で原子炉の冷却や汚染水対策に当たる3000人の作業員の姿があった。 現場は疲弊していた。 「どこかでモードを切り替える必要がある。 原発がもう大変な状態にならないと宣言しない限り、理解はされない …」
 政府と東電の計画は、原子炉の 「冷温停止状態」 を11年内に目指すとした。 炉内の温度が100度以下。 放射性物質の新たな外部放出の大幅抑制。 「収束」 は、数々の判断条件をクリアしてはいた。
 野田は言う。 「冷温停止状態に至った事実に基づいた一つの大きな節目。 日本は少しずつ問題解決をしているという国際社会へのメッセージの意味合いもあった」。 釈明の後、悔いにも聞こえる思いを吐露した。 「『 収束』 という言葉を 『全て解決』 と受け取ってしまう人が出た。 言葉足らずだった」


 

 原発事故 「収束」 宣言は空振りに終わった。 「福島の再生なくして日本の再生なし」。 首相野田佳彦が記者会見で力を込めた言葉は色あせた。
 「信じられない」 「子どもを連れて帰れない」 …。 「収束」 宣言を、原発事故の 「終息」 と読み替えた避難者の不安と不満は膨らんだ。 福島県浜通りを地盤とする自民党衆院議員吉野正芳( 福島5区 )は 「被災者の支援策、汚染水対策の推進といった課題を、民主党が自らあぶり出す反作用のようなインパクトがあった」 と皮肉交じりに語る。
 宣言への反発の傍ら、収束に向けたレールは政府の主導で、歳末にかけ突貫で敷かれていった。 12月21日、政府は 「最長40年」 とする新たな廃炉工程表を決定。 県内の避難区域の再編に着手し、除染廃棄物の中間貯蔵施設を双葉郡に設置する方針を地元に伝えた。 事故対応は待ったなしだった。
 日本の原発事故対応は国際社会が注目していた。 2013年9月、現首相安倍晋三が国際オリンピック委員会総会で、汚染水問題をめぐり 「状況はコントロールされている」 と発言したことは、その裏返しだった。 安倍は東京五輪の20年開催を引き寄せる一方、福島の反発を招くことになる。
 後に、原発事故担当相細野豪志は宣言のタイミングを 「早すぎた」 と認めた。 それでも 「宣言自体は必要だった」 との思いは揺るがない。 「5年たった今も、あの時以外に発表する機会はなかったと思う。 危機的な状況を脱し、これから長い廃炉へのプロセスに入るという整理の仕方をした」
 被災者の境遇や心情を半ば無視したような宰相の言動。 未曽有の複合災害に見舞われた被災地、被災者には鋭く突き刺さり、帰還や復興の意欲をそぐ副作用をもたらした。 「原発に関しては、いろんな感情のひだがあることを踏まえなければならない。 政治家は国内外の不安を取り除く意味でも、むしろ力強い言葉を使わなければならない時もある。 でも、それによって置き去りにされる人たちの気持ちがあることも経験した」
 野田は国家と国民のはざまで、制御し難い原発事故に向き合う困難さを思い知った。
 


( 2016.03.13 )

 


 震災対応そっちのけで党内抗争を繰り返す民主党の惨状に、党幹部も 「もうだめだ党内みんなメルトダウン」 と自嘲するばかりだった。



 「かかるとき かかる首相を いただきて かかる目に遭ふ 日本の不幸」 とは、俳人の長谷川櫂さんが5年前の東日本大震災に際して詠んだ短歌である。

 「かかる首相」 がどのように 「日本の不幸」 をもたらしたのか、それをきちんと総括して、その 「不幸」 を再発させない事が、大震災の犠牲者の方々に対する我々の責務であろう。 大震災の5周年を期に、この点を振り返って見たい。

 平成22( 2010 )年6月8日に発足した菅直人内閣は、当初は64%と高い内閣支持率を誇っていた。 しかし、9月7日、尖閣諸島海域で海上保安庁巡視船に体当たりして逮捕された中国漁船の船長を釈放させ、しかも衝突のビデオを隠すなど、姑息な対応が国民の批判を呼び、翌年1月には内閣支持率は34%に急落していた。

 震災発生直前には、菅が在日韓国人から献金を受けていた事実が発覚した。 その5日前には、同様に在日韓国人から献金を受けていた 「ポスト菅」 の有力候補、前原誠司が外相を辞任していた。

 3月11日午前には、自民党、公明党、そして民主党の小沢一郎グループも菅の辞任を求めた。 そのわずか数時間後に大震災が発生し 「政治休戦」 となる。 菅は絶体絶命の境地を大震災に救われたのだった。




 大震災の翌朝、菅は自ら福島第一原発を視察した。 枝野官房長官が 「このタイミングで官邸を外せば、袋だたきに遭います」 と制止したのを、 「バカ野郎。 事態を食い止めるのと、批判されるリスクを考えるのとどっちが大事だ」 とはねのけた。

 菅の思惑は、現場への登場ぶりに現れていた。 ヘリが到着して、乗員が降りようとすると、 「まず総理だけが降りますから、すぐには降りないで下さい」 と待たされた。 写真撮影のためだった

 その後、菅は吉田昌男・福島第一原発所長に約25分間、事態の説明をさせた。 大震災発生後、不眠不休で原子炉に海水を注入するまでなんとか漕ぎつけていた吉田所長の貴重な時間を奪ったのである さらに、どこにヘリをとめ、どう首相を案内するのか、足りない防護マスクをどうするのか、など受け入れ準備で現場に無駄な時間を使わせた。

 菅は原発視察ののちに、宮城県の被災地をヘリで視察し、結局、4時間半、官邸を留守にした。 震災対応の司令塔たるべき首相が、その責務を放り出していたこと自体が問題だ、という批判も噴きだした。

 その後の海水注入にも菅は、再臨界などの恐れがあるから、よく検討せよという指示を出して、横やりを入れた。 吉田所長はそれを聞き入れるふりをして、部下には海水注入を続けよ、と命じていた。 1分1秒を争う事態に、菅は知ったかぶりをして、現場で戦う人々の足を引っ張っていたのである

 政府関係者は 「首相が東電の技術者をことあるごとに官邸に呼びつけてどなるので、現場対応の邪魔になっている」 と嘆いていた。




 3月13日、東京電力は原発停止による電力供給不足に対応するため、1都8県を5グループに分け、各3時間程度、交代での計画停電を14日朝6時20分から行う事を計画した。 東電は、少しでも計画停電に備えて貰おうと、午後6時半から清水正孝社長が発表を行うこととし、午後2時前に菅にその旨を伝えた。

 ところが、官邸から 「まず、首相が国民に直接呼びかける」 と横やりが入り、東電の発表を遅らせた。 枝野は午後5時前の記者会見で、電力不足対応策を検討するための 「電力需給緊急対策本部」 を設置し、ただちに会合を開くとしたが、計画停電に関しては 「ギリギリの調整を電力会社と経済産業省でしている」 とぼやかした。

 結局、菅が午後8時に記者会見で計画停電を発表。 その後も 枝野、海江田経産相、蓮舫節電啓発相が次々に国民に節電を呼びかけ、東電側の発表をさらに遅らせた。 東電の社員からは 「首相官邸のやっていることは、まるで政治ショーだ。 つきあいきれない」 との恨み節が漏れた。

 しかし 「事前に十分な準備時間もないまま計画停電を実行すれば、人工呼吸器が止まって死者が出る」 との悲痛な訴えが各方面から殺到し、枝野は14日未明、東電幹部を呼び出し、 「計画停電を午前中だけでも止めろ」 と迫った。

 結局、14日午前の計画停電は見送られたが、政府側から詳細な説明もなく、首都圏のJRや私鉄各線は通勤電車を削減したのに、多くの乗客がいつも通り押し寄せ、駅も車内も大混乱に陥った。




 首相官邸が機能不全に陥っているなかで、自衛隊、消防、警察が協力して、原発への決死の放水作業を試みていた。 その作業が難航していた3月17日、陸上自衛隊の大型輸送ヘリ2機による上空からの海水投下が計4回に渡って決行された。 この作業は、テレビでも中継され、多くの国民が固唾を呑んで見守った。

 ヘリからの海水投下は、見た目の派手さとは裏腹に、危険な割には効果が薄いと見られていた。 それでも菅があえて北澤防衛相に実施を指示したのは、この日予定されていたオバマ米大統領との電話会議の前に、日本もやるべきことをやっているという実績を示したいとの思惑があったからだと指摘された。

 投下実施後の記者会見で北澤が防衛相が 「きょうが限度であると判断をした」 と語ったのは、菅の 「政治ショー」 のために、自衛隊員の生命を危険に晒すのはこれで終わりにしたい、という意思表示ではなかったか。 その後、北澤防衛相は二度とこの作戦を指示しなかった。

 米国は大震災発生の直後から 「トモダチ作戦」 を発動して、最大時1万8千人もの兵力を動員して被災地救援に協力してくれたが、日本側の対応はあまりにも遅く、拙かった。 米国のジョン・ルース駐日大使が最新の情報を求めて官邸に頻繁に電話しても、菅も枝野もなかなか掴まらなかった。

 米側から不満をぶつけられた長島明久・元防衛政務官は菅に 「米側には、本当にフラストレーションがたまっています。 このままでは、日米同盟は深化どころか、崩壊してしまいます」 と進言した。

 菅はこれを受けて、原発事故対応に関する日米の調整会議の設置を了承したが、スタートしたのは22日で、大震災から10日以上経っていた。 こうした日米のすれ違いは、 「国際社会が菅政権に対する不信感を強めている」 という見方を広めていった。




 枝野は 「広報担当」 と呼ばれるほど頻繁に記者会見を開いていたが、原発関係ばかりで、民主党幹部からも 「原発対応も大事だが、被災者支援が手薄になっている。 国民のライフライン( 生活物資補給路 )確保のために政府は何をやっているのか」 と批判の声があがった。

 特に被災地への物資供給が停滞し、警察車両ですら給油待ちを強いられるほどだった。 3月16日に震災対応を協議する超党派の 「各党・政府震災対策合同会議」 が開かれたが、会議後、共産党の市田忠義書記局長は記者会見で 「政府は 『鋭意対策に努めている』 というだけで、ガソリン、軽油といった個別の問題でこんな手を打っているという話が一切ない」 と批判した。

 17日には福島県いわき市などで避難中や移送中の患者21人が亡くなっていたことが明らかになった。 被災者支援が手薄のため、高齢者などが避難後に死亡する 「震災関連死」 が相次ぎ、政府に厳しい視線がむけられた。

 自民党は経団連と連携して直接救援物資を送る動きを見せた。 「首相官邸に何度申し入れても全く動かない」 ( 自民党関係者 )という被災者支援のお粗末さに業をにやし、直接乗り出したのだった。

 菅や枝野が原発対応に追われて、被災者支援が手薄になったと言われるが、その原発対応ですらスタンドプレーに過ぎなかったのでは、犠牲者たちも浮かばれないだろう。




 菅内閣は震災対応のための会議を作り続けた。 震災1ヶ月後には、閣僚級だけで5つもの対策本部ができ、官僚からも 「責任の所在があいまいで、かえって非効率だ」 と批判された。 「いくつ会議を作れば気が済むのか。 責任逃れとしか思えない」 との声まであがった。

 5月6日には菅は突然、 「地震の危険性」 を理由に、中部電力の浜岡原子力発電所の停止を要請した。 反原発派からは喝采を受けたが、国民の 「なぜ浜岡だけなのか、他の原発は大丈夫なのか」 という当然の疑問には、国民の納得のいく説明はなかった。

 こうしたスタンドプレーも虚しく、5月中旬の世論調査では、原発事故の政府対応について 「評価しない」 と答えた人が73%にも達していた。

 5月19日、西岡武夫参院議長は読売新聞に、次のような一文を寄稿した。
…… 首相としての責務を放棄し続けてきた。 …… 必死さも、決意も、すべもなく、今、お辞めにならなければ、原発事故がもたらす重大な課題も解決できない。 政権担当能力を超えた難題なら、自ら首相の座を去るべきだ。
 立法府の長である参院議長が、同じ民主党出身の行政府の長である首相の退陣を公然と求めるのは極めて異例だったが、この一文には、もう座視していられない、という切迫感が溢れていた。




 「菅では震災対応を乗り切れない、早く替えるべきだ」 という声は与党・民主党の中にも広がっていった。 6月2日に野党から内閣不信任案が出され、民主党内の小沢一郎や鳩山由紀夫らの一派も賛成しかねない状況だった。

 切羽詰まった菅は、鳩山ら民主党幹部との会談で 「大震災への取り組みに一定の目処がついた段階で、 …… 若い世代に色々な責任を引き継いでいただきたい」 と発言し、これを鳩山らは早期退陣を約束したものと受け止めた。 そして民主党の分裂を避けるために、不信任案反対に回った。

 鳩山と菅は覚書きまで交わしていたが、 「一定の目処」 に関して、鳩山は 「復興基本法が成立し、第2次補正予算の目処がつく」 時期として6月末での退陣を考えていた。

 しかし、不信任案否決の直後、菅が晴れやかな顔で10月中旬から翌年1月中旬とされている原子炉の冷温停止までは 「私の責任」 だと言ったことで、 鳩山は 「裏切られた。 人間として最低、クズだ」 と激怒 した。

 ここから民主党内の菅降ろしのための抗争がさらに3ヶ月近く続く。 震災対応そっちのけで党内抗争を繰り返す民主党の惨状に、党幹部も 「もうだめだ 党内みんなメルトダウン」 と自嘲するばかりだった。

 しかし、その間も、菅のスタンドプレーは続いた。 電力制限を続ける中で、定期点検の終わった九州電力玄海原発2、3号機の再稼働を地元も海江田経産相も了解していたのに、菅は7月6日に新たなストレステストの導入を発表して再開を先送りさせた。

 前年秋以降、菅自身が主導して決めたベトナムへの原発輸出も、7月13日に菅が突然 「脱原発」 方針を表明したため宙に浮いてしまった。

 菅が正式に退陣表明をしたのは8月26日だった。 内閣支持率は18%に下落し、これでは破れかぶれの解散・総選挙も打てない。 同時に、自民党は菅の資金管理団体が北朝鮮の日本人拉致事件の容疑者親族が関係する政治団体に不透明な政治献金を行っていた問題を追及する姿勢を強めていて、進退窮まったからだ。




 国民からも見離され、野党のみならず民主党内でも辞任を突きつけられる中で、菅は7月29日には記者会見でこう胸を張った。
 この間、大震災そして原発事故への対応について、もちろん100点とは言いませんが、内閣としてやるべきことはしっかり取り組んでいる。 早い遅いの見方はありますけれども、着実に復旧から復興へ物事が進んでおります。
 この時期の菅の様子を、伸子夫人もこう評している。
 あの人はずっと楽でしたね。 きついことは1回もなかった気がします、私から見ると。 3月11日以降、ずっと大変でしたが、何も変わらなかった。
 これが 「かかるとき かかる首相を いただきて かかる目に遭ふ 日本の不幸」 の実態であった。 「かかる首相」 がいなければ、多くの犠牲者も死なずに済み、被災者ももっと早期に助けられたはずである。