調
■ 中韓の日本批判に便乗の卑劣さ
■ 国悪を諱むは礼なり、と知れ




≪“記者道”に反する行為 ≫

 わが国の新聞報道や議論で、前から気になっている不愉快な一つの型がある。 それは、教科書問題、慰安婦問題、植民地統治や南京事件の謝罪から最近の靖国問題や歴史認識論に共通しているが、特に中韓両国がからむときにひどい。

 まず日本の記者が、日本の国内問題( 例えば教科書問題 )をいち早く中韓の当局者やジャーナリストに告げ口する。 そして彼らを挑発して、日本の批判や非難をさせる。 彼らのそうした日本批判に便乗し、それを日本政府の当局や当事者に突きつけて、それ見たことかと得意になるという筋書である。

 このやり口が卑劣なのは、最初に問題提起した記者は名を出さず、彼ら自身の意見も責任も問われぬことである。 これは、言論人として実に恥ずかしい態度で、昔なら卑怯者とさげすまれたであろう。

 報道に携わる記者の大切な仕事は、第1に問題の内容とそれをめぐる事情の正確な把握である。 第2にその問題に関するさまざまな異見の内容の比較考量である。 単なる賛否だけではない。 さらに一番重要なのは、その問題に自分自身の意見を立てることである。

 その種の記者は、そうした調査と考察に時間をかけて努力もせず、マイク片手に他人の意見を聞いてまわり、安直に日本をやっつける議論集めに奔走しているかのように見える。 それは“記者道”に反するであろう。

≪ 春秋左氏伝の教え知る ≫

 たとえ駆け出しの若い記者がそんなやり方で原稿を書いても、それをたしなめ指導するのが年配の先輩記者やデスクでなければならないはずである。 しかし同じようなやり方が反復してまかり通っているところを見ると、ベテランジャーナリストの指導力にもかげりがあるのであろう。

 いやしくも言論をもって立つ者は、まず名を名乗らねばならぬ。 なぜなら言論には責任を伴うからである。 殊に他人を批判糾弾するなら、自分の名や身分地位を明らかにして、いざとなれば責任をとる用意がいる。 さもないと、闇打ちで卑怯であろう。

 さらにこの手口の重大な問題点は、自国の批判を外国政府や外国人にやらせ、それに便乗する点にある。 有名な中国の古典の『春秋左氏伝』の僖公元年の条に 「国悪をむは礼なり」 という時々引用される言葉がある。 外国では、自国の悪口をつつしむのが礼にかなう、という意味である。 それは当然である。 自国や同胞のことは、良きにつけ悪しきにつけ、また程度の差こそあれ、自分にも関係と責任がある。 自分で処理すべきもので、他人の手を借りるのは恥である。
 それなのに、あたかも自分が中国人か朝鮮人になったような口調で得意気に自国批判をするのは、どうかしている。 もし外国人が日本に来て、そういうことをすれば、われわれはそんな外国人を尊敬するであろうか。

 その人々の誤りは二重である。 第1に自己の出世や利益のために自国政府や要人の悪口を他人の口から言わしめる利己心の卑しさであり、第2は外国や他人の力や影響力を自国の政争に利用して、国内での自分の立場を有利にしようとする打算と自信の無さである。

海外の新聞社で“記者”と呼ばれているのは、自分自身の意見を記名で記事として書ける人を指し、日本のような単にその状況を活字にするだけの人は“通信使”と呼ばれている。