北方領土問題は、ソ連が第二次大戦末期の1945年8月9日、当時有効だった日ソ中立条約を破り対日参戦して始まった。
[ 日ソ中立条約に調印する松岡外相 ]
( 後方スターリン、その右モロトフ・画像クリックで拡大 )
 ソ連軍は、日本が降伏文書( ポツダム宣言 )を受諾した3日後の8月18日、千島列島に攻撃を開始。 後に北方四島と呼ばれるようになった択捉、国後、色丹各島と歯舞群島を占領したのは、日本が降伏文書に署名した9月2日以降のことだった。 以来、ソ連・ロシアは60年以上、四島の不法占拠を続けている。

 ソ連は、終戦のどさくさに紛れて、当時は日本領だった千島列島や南樺太( 現サハリン )に加え、その歴史で一度もソ連・ロシア領となったことがない日本固有の領土の北方四島を略奪したのである。

[ 対ソ交渉および終戦問題討議の記録 ]
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 ロシア側は、それを、戦争を始めた日本への「懲罰」 などと説明する。 だが、参戦したのはソ連の方で、日本はソ連に宣戦布告すらしていない ソ連は、日本を侵略 し、さらに「懲罰」 を与えたのである。

 領土が石油などの富をもたらしてきたロシアでは、「時と場合によっては、他国の領土すらも奪ってかまわない」 と、考えているリーダーたちが今も数多くいる。 その証拠が、北方領土なのである。 大戦後、領土を拡張したのは、連合国ではソ連だけなのだ。

 だから、四島の面積等分論や2島返還で解決することは、日本がソ連による「領土略奪」 を是認したことになる

 しかし、未来志向の関係構築であれば、「人のモノは盗んではいけない」 という普遍的な価値観を両国が共有することが何より重要だ。 「盗んでもいい」 文化圏と、協定を結んでも信頼関係は生まれない。 互恵的な経済協力にも限界が出てくるだろう。 ロシアに「島を返してから友達になりましょう」 と訴え続けることが肝要ではないか。

 なぜ、日本は北方四島の返還を求めているのか?!
 戦争の記憶が薄れる昨今、学校で、その重要性を教えるときが来ているのではなかろうか。







[ 昭和20年8月8日附対日宣戦布告通知書 ]
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 第二次世界大戦末期の1945年( 昭和20 )8月9日未明、ソ連は日本に対して、日ソ中立条約を破棄して宣戦布告 をし、満州帝国・日本領朝鮮半島北部に軍事侵攻した。 日本は8月14日に中立国を通して降伏を声明したが、ソ連は8月16日には日本領南樺太へ、8月18日に千島列島へも侵攻して占領した。

[ ヤルタ会談3巨頭 ]
( 右より スターリン、ルーズヴェルト、チャーチル )
 これらの行動は、ソ連・アメリカ・イギリスの密約であるヤルタ会談に基づくもの であった。

 樺太では直後に、千島の占守島では8月22日に、日本から停戦命令が下り、降伏した。

 満州でも8月17日に派遣された皇族が新京に到着し、8月18日には満州帝国が滅亡したため、関東軍総司令官山田乙三大将とソ連極東軍司令官ワシレフスキー元帥は8月19日に停戦交渉に入って、8月26日頃にはソ連軍とのすべての戦闘が終わった。 満州では停戦会談によって、武装解除後の在留民間人保護について、一応の成立を見たが、ソ連軍がその通りに行うことは少なかった。 日本軍の崩壊した後の民間人は何の保護も得られず、多くの被害が出た。

 占領地域の日本軍はソ連軍によって武装解除され、9月6日の山田ら関東軍首脳を手始めに、日本軍将兵、在満州民間人・満蒙開拓移民団の男性が続々とハバロフスクに集められた。 彼らは日本に帰れることを期待していたが、ソ連は捕虜を1,000名程度の作業大隊に編成した後、貨車に詰め込んだ。 行き先は告げられなかったが、日没の方向から西へ向かっていることが貨車の中からでも分かり絶望したことが伝えられる。 抑留された捕虜の総数は、作業大隊が570あったため、当初は57万名が連行されたと考えられたが、65万人というのが定説である。 一説には200万人以上とも言われる。




 ソビエト連邦の独裁的指導者ヨシフ・スターリンは、ヤルタ協定で約束されていた千島列島・南樺太の占領のみならず、日本敗戦直後に米大統領ハリー・S・トルーマンに連絡し、北海道の分割占領( 留萌町から釧路市を結ぶ線の北東側と両市町を占領 )を申し入れた。 理由は、「日本によるシベリア出兵によってソ連は占領されたため、ソ連も日本の領土を占領しなければ、国民の怒りが収まらない」 というものであったが、日本占領政策にソ連の影響力を強めようとする策略だったと考えられる。 しかし、トルーマンはこれを一蹴したため、「その代償として捕虜をシベリアに送った」 という説があるが、この理由はソ連の捏造の可能性が高いという説もある( 国際政治学者瀧澤一郎の見解 )。




 シベリア抑留問題とは、第二次世界大戦の終結の時期に、中国東北部にいた約60万人以上の日本軍兵士や民間人がソ連の捕虜として連行され、シベリアでの強制労働に従事させられた問題です。 強制連行は、1945年8月にスターリンが拘留指令を出したためであり、この結果、抑留者の帰国が終わる56年までの間に、6万人以上が厳寒の地で命を落としました。

 この行為は、捕虜のすみやかな送還を明記したハーグ陸戦規則にも、武装を解除した日本軍兵士が「各自の家庭に復帰」 することを定めたポツダム宣言にも反するものです。 このように国際法を乱暴に踏みにじったソ連側に、シベリア抑留の悲劇を生んだ最大の責任があることは明白で、93年にエリツィン大統領が謝罪しています。

 日本政府は、「ソ連」 への請求権を56年の日ソ共同宣言で相互放棄されたとしています。





ソ連参戦 混迷の始まり

 地図で見ると旧満州、朝鮮半島、ソ連との国境が入り交じっているように見える満州東部の国境守備隊陣地、虎頭、五家子( 琿春南方約三十キロ )から「ソ連軍の砲撃を受けている」 との第一報が第一方面軍司令部( 牡丹江 )に入ったのが昭和二十年八月九日午前零時であった。 相次いで東部正面の国境守備隊からも同様の入電があり消息を断った。 第一方面軍司令部はソ連の本格的な進攻が開始されたとの判断に立たざるをえなかった。
 新京にあった関東軍総司令部( 山田乙三大将 )に第五軍( 第一方面軍隷下 )の情報参謀前田忠雄中佐から緊急電話が入ったのは午前一時であった。 前田参謀はさらに「東寧、綏芬河にもソ連軍が攻撃を始めた。 牡丹江はソ連機によって空襲を受けている」 と報告して電話を切った。
 関東軍はソ連の進攻に備えて東正面、北正面、西正面の三つに分けて兵力を配備していた。 まず東正面から「ソ連進攻」 の第一報が入ったことは、他の二方面からも進攻してくる可能性があることを示唆した。 関東軍司令部内には殺気が漂った。
 同一時三十分、新京郊外の寛城子が空襲を受けた。 いきなり満州の中枢部に攻撃を仕かけてきたことは、ソ連が国境を越えて三正面からなだれこんでくる意思を持っていることの証明であった。 果たせるかな、北正面守備隊から「ソ連軍が黒竜江の渡河を始めた」 と報告が入り、西正面守備隊からは「満州里の国境監視哨を急襲され、有力な機械化部隊がハイラル方面に進出するもよう」 との報告が入った。 こうなっては、ソ連が全面戦争に踏み切ったと判断する以外にない。 一方的なソ連の武力攻撃はこうして開始された。
 関東軍総司令官山田大将は大連に出張中であったため、総参謀長秦彦三郎中将が大本営に急報( 電話 )すると同時に、全部隊に対して「全面開戦準備」 を指令、さらに「それぞれの作戦計画に基づき進入してくる敵を破砕すべし」 と下令した。
 関東軍からの急報に接した大本営も、また驚きを隠さなかった。 この時期「本土決戦」 を叫ぶ主戦派と、日本降伏を求めた連合国のポツダム宣言の受諾をめぐって、軍部首脳、政府要人の間で対立が続いていた。
 が、だれよりもソ連進攻の事実を知って困惑したのは大本営参謀総長梅津美治郎大将、参謀次長河辺虎四郎中将、東郷茂徳外務大臣ら少数の“和平派”であった。 武力進攻を開始して来たソ連に、連合国との和平仲介を工作していたのである。
 ソ連は日本と中立条約を結んでいる唯一の国であった。昭和二十年四月五日、ソ連は日ソ中立条約を延長しない旨、通告してきたが、条約はまだ有効であり、モスクワには佐藤尚武大使、東京にはマリク大使が駐在していた。六月中旬から「ソ連を仲介とする対米和平」の工作がひそかに進められ、具体的には七月十二日、天皇の特使として「近衛文麿元総理を派遣したいのでソ連の意向を調整するよう」、外務省はモスクワの佐藤大使に訓電していた。
 この和平工作の推進論者の一人だった河辺参謀次長が、ソ連の参戦を知り「ソ連に対する判断を誤った」 と八月九日の手記に書いているほど、日本にとっては“寝耳に水”であり、広島への米国の原爆投下を待っていたかのような武力進攻を開始したソ連の行動は日本人の理解を超えるものであった。河辺手記は政府、軍上層部の情報収集能力、国際感覚の欠如を物語ると同時に、日本人の“お人好し”の証明とも受け取れよう。
 歴史的な事実から見ればソ連の武力進攻は“無通告”であり計画的なものであった。ソ連がソ満国境から進攻してきた九日午前零時の段階では、日本人でソ連の「対日宣戦布告」 の事実を知っていたのは、クレムリンでモロトフ外相から文書を突きつけられた佐藤大使一人である。
 佐藤大使は「和平仲介」 をソ連に告げ、モロトフ外相との面会を求めていた。 スターリン首相、モロトフ外相ら首脳はポツダム会談に出掛け、八月初め帰国した。七日クレムリンから電話があり「八日午後八時( 日本時間九日午前二時 )にモロトフ外相が会見する」 と言ってきた。しばらくして「午後五時( 日本時間八日午後十一時 )にしたい」 と変更申し入れがあった。佐藤大使は和平の仲介依頼が可能になったものと考え、クレムリンを訪れた。 が、あいさつもそこそこに、モロトフ外相が佐藤大使に手交したのは対日宣戦布告文であった。 「無線を使って日本に打電してよい」 と言いながら、どうした理由か、大使の打った電文は日本に届かなかった。 届いたとしても手の打ちようはなかったろう。
 日本がソ連の対日宣戦布告を知ったのは、すでにソ連が武力進攻を開始した四時間後、モスクワから打電されたタス通信を傍受してからである。 当時、外国と交信できる無線機を持っていたのは軍部以外には外務省ラジオ室と同盟通信社などにしかなかった。 松本俊一外務次官は「九日早朝、外務省ラジオ室からと同盟からとの電話によってソ連の参戦を知った」 と言っている。
 佐藤駐ソ大使が、モスクワから発信したはずの「ソ連、対日宣戦布告」 の電文が日本に届かなかったことを裏付けるいま一つの証言は、同盟通信社海外局長長谷川才次氏の談話である。 昭和二十二年、『 婦人公論 』 八月号に同社の求めに応じて語った内容だ。「九日( 昭和二十年八月 )午前四時ごろ( 同盟からの )電話でソ連が日本に宣戦布告したことを伝えてきた。 これはタス通信を受信したのです。 それを東郷( 茂徳外相 )さんと迫水( 久常内閣書記官長 )さんに知らせたときに、二人とも意外のような口ぶりで、東郷さんなどは『 ほんとうか 』 となんべんも念を押すのだな。 というのは仲介の労を依頼して、いい返事のくるのを待っていたところだから」 と語っている。
 「仲介の労」 とはソ連を通じての日米和平工作のことである。 ソ連がヤルタで米英と対日参戦の密約を結んでいたことなど、日本はまったく知らなかったのである。






 戦後、マスコミを含めて多くの国民は日本が敗戦で無条件降伏したものと思いこまされてきた。 だが、日本が受諾したポツダム宣言は日本の軍隊に無条件降伏を求めているが、日本国にはそれを求めていない。 江藤氏はこの重要な事実を改めて指摘し、ポツダム宣言を正確に読み直すことを求めた。
 だからこそ、ソ連に対する北方領土返還要求の正当性を主張し、シベリア抑留の不法を訴えることができるのだと江藤氏は強調した。 この正論が掲載された昭和53年夏、江藤氏と本多秋五氏との間で、いわゆる「無条件降伏論争」 が起きる。 今では、「日本は無条件降伏していない」 という事実が定着している。


ポツダム宣言明示の諸条件

 去る7月30日、外務省が戦後外交機密文書の第四次公開を行った際、それを報じたある全国紙( サンケイ新聞ではない )の解説記事を読んでいて、私はわが眼を疑わざるを得なかった。 その記事は2ヵ所にわたって、看過すことのできない重大な事実の誤認をおかしていたからである。
 その第一の箇所には、
 《 …日本側はポツダム宣言が無条件降伏であり・・・・・・・・・・・・・・・、「大東亜共栄圏」の指導者を亡命させる“能力”がないことに、当初気がついていなかったフシもうかがえる 》( 傍点引用者 )
 と記されており、第二の箇所には、
 《 敗戦に賠償はつきものである。無条件降伏となり・・・・・・・・、米軍が占領軍として進駐してきた時、多くの日本人は巨額の賠償を覚悟した》( 傍点引用者 )
 と記されている。
 しかし、この記述のうち私が傍点を附した部分は、いずれも明らかに事実と相違している。 ポツダム宣言は、そもそも日本に無条件降伏を要求しなかったし、それを受諾した日本は、当然のこととして連合国に無条件降伏したわけではないからである。
 この問題については、私は、『 終戦史録 』( 全六巻・北洋社刊 )の解説や拙著『 もう一つの戦後史 』( 講談社刊 )などで、繰り返して指摘して来たが、ことが日本敗戦の原点にかかわる事柄なので、煩をいとわずに重ねて確認しておきたい。 ポツダム宣言を受諾したとき、日本は決して、無条件降伏したわけではない。 ポツダム宣言に明示された諸条件を受け容れて、ともかくも主権を維持しつつ降伏したのである。

本文を読めばわかること

 上の解説記事の記者は、おそらくポツダム宣言の本文を読んだことがないか、不正確にしか読んでいなかったにちがいない。 もし本文を参照していれば、かりにも私が指摘したような初歩的な事実の誤認をおかし得たはずがない。 なぜなら、ポツダム宣言第五項は、「吾等ノ条件ハ左ノ如シ( Following are our terms. )」 として、第六項以下の条項に降伏条件を明示し、「無条件降伏( unconditional surrender )」 なる語が用いられているのは第十三項においてだけで、それもただ一ヶ所「全日本国軍隊ノ無条件降伏( the unconditional surrender of all Japanese armed forces )」 という文言において用いられているだけだからである。
 つまり、ポツダム宣言を受諾した結果「無条件降伏」 したのは「全日本国軍隊」 であって日本国ではなかったのである。 これは決して無意味な言葉の遊戯でもなければ、私の論弁でもない。 この事実の上には今日の日本の存立がかかり、殊に対ソ関係においては、わが北方領土返還要求の合法性がかかっている。
 その意味で、ポツダム宣言は文反古のなかで死文化してはいず、今日の国際関係の現実に脈々と生きつづけている。 われわれは、一方で日本の「無条件降伏」を認めながら、ソ連による邦人シベリア抑留の不法を鳴らすことはできず、北方領土返還要求の正当性を主張することもできないのである。

降伏条件実行求める権利

 ところで、『 アメリカ合衆国外交関係文書 』 所収第1254文書「国務省覚書」 ( 1945年7月26日の宣言と国務省の政策との比較検討 )を一見すると、ポツダム宣言発出当時から米国務省がこの宣言の性格を正確に把握し、それが従来の国務省の政策の抜本的な変更を意味することを認識していたことが明らかである。
 もともと「無条件降伏」 の構想は、米大統領フランクリン・ローズヴエルトが南北戦争の戦後処理にヒントを得て、着想したものだといわれている。 それはまず1943年1月26日、カサブランカ会談終了時の記者会見において、対枢軸国方針として声明され、同年11月27日のカイロ宣言において、「日本国の無条件降伏」 という文言に特定された。
 この基本方針が、ポツダム宣言における「全日本国軍隊の無条件降伏」 に後退を余儀なくされたのは、①口ーズヴエルトの病死、②日本軍の予想外な頑強な抵抗、③連合国間の思惑の変化等々の理由によるものと考えられる。 これについて米国務省は、前記「覚書」 において、戦勝国の意志を一方的に敗戦国に押しつけようとする従来の「無条件降伏」 方式が、ポツダム宣言の結果重大な修正を加えられたことを認め、次のような見解を下している。
 《 ポツダム宣言は降伏条件を提示した文書であり、受諾されれば国際法の一般規定によって解釈される国際協定をなすものとなる 》
 つまり、ポツダム宣言は、日本のみならず連合国をも拘束する双務的な協定であり、したがって日本は、占領中といえどもこの協定の相手方に対して、降伏条件の実行を求める権利を留保し得ていたのである。

北方領土占拠が不当な理由

 いうまでもなくソ連は対日参戦後ポツダム宣言の署名国に参加し、この「協定」 の拘束を受けている。 ソ連の邦人シベリア抑留が不法だったのは、早期帰還を約束している宣言第九項に違反していたためであり、わが北方領土占拠が不当なのは、ポツダム宣言が領土不拡張を掲げたカイロ宣言の精神を継承しているにもかかわらず、その原則を侵害しているためである。
 もし冒頭に引用した解説記事の記者のいうように、日本が 「無条件降伏」 をしていたのであれば、われわれはポツダム宣言署名国であるソ連に対して何等の請求権を持ち得ないことになる。 今日、わが国の北方領土返還要求が不当だというジャーナリストは、少くともこの日本にはいないであろう。 そうであれば、日本が「無条件降伏」 したなどという謬説をただちに去って、敗戦の原点を今一度虚心に見詰め直してもらいたいと思う。
 戦争の敗け方にも、いろいろな敗け方がある。 敗けたからといって事実を曲げ必要以上に自らを卑しめるのは、気概ある人間のすることとは思われないのである。






2009.9.19

ノモンハン事件の日ソ停戦協定
( 右端は日本代表藤本少将、中央は文書を手にするソ連ポタポフ少将 )
 今月11日、東京・四谷の上智大学講堂で、ノモンハン事件70周年のシンポジウムが開かれた。 ノモンハン事件は昭和14( 1939 )年5月から9月にかけ、日ソ両軍が旧満州国とモンゴルの国境線をめぐって激戦を繰り広げた戦闘である。 同じころ、欧州では、独ソ不可侵条約が結ばれ、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まった。
 シンポジウムでは、当時の日本が欧州情勢をどう見ていたかについて、貴重な発表が行われた。
 通産省OBで企業活力研究所理事長の土居征夫氏は、駐ソ大使館付武官だった父、土居明夫氏が昭和14年6月、モスクワからシベリア鉄道で一時帰国する途中、ソ連の機械化兵団が東へ送られる状況をつぶさに観察していた事実を報告した。 しかし、土居明夫氏がこれを新京( 長春 )で関東軍司令部に伝えたところ、関東軍参謀から無視された。 東京でも、参謀本部や陸軍省に報告したが、反応は鈍かったという。
 国際日本文化研究センターの戸部良一教授は、当時の情報収集について研究発表を行った。 イタリアの白鳥敏夫大使は昭和14年4月20日、ベルリンのヒトラー生誕50周年記念式典に招かれ、ドイツのリッベントロップ外相から独ソ提携の可能性を示唆された。 白鳥大使はこれを東京の外務省に打電した。 同年6月から7月にかけ、駐独大使館付海軍武官からも、独ソ接近情報が入ってきたが、いずれの情報も重視されなかった。
 ノモンハン事件の最中の同年8月下旬、独ソ不可侵条約の調印を知らされた平沼騏一郎首相が「欧州情勢は複雑怪奇」 と言って退陣したことは、よく知られている。 日本政府の情勢判断の甘さを物語っている。
 当時の日本はドイツと防共協定を結び、これにイタリアを加えた日独伊三国同盟の締結を目指していた。 反共国家のドイツが共産国のソ連と手を結ぶはずがないという固定観念にとらわれていたといわれる。 その間、ソ連はドイツとの不可侵条約締結の見通しをつけつつ、着々と機械化部隊を東へ移動させていたのだ。



 政府や軍上層部の甘い見通しにもかかわらず、ノモンハンの日本軍は、機動力と火力で勝るソ連軍に対し、善戦敢闘した。
 当初、ノモンハンに派遣された23師団( 小松原道太郎中将 )は、夜襲や火炎ビンを使った攻撃などで、ソ連の機械化部隊に応戦した。 しかし、8月20日から開始されたソ連軍の大攻勢により、壊滅的な損害を受けた。 その後の戦闘で、日本軍が反撃に成功した事実は、あまり知られていない。
 現代史家、秦郁彦氏の研究によれば、8月末、ノモンハンに急派された第2師団の歩兵16連隊( 宮崎繁三郎大佐 )は夜襲攻撃で997高地をソ連軍から奪取した。 また、独立守備歩兵第16大隊( 深野時之助中佐 )は白兵戦で1031高地を奪っている。
 こうした終盤戦の勝利は、停戦協定( 9月16日 )以降の国境線画定にも影響を与え、日本軍が苦戦したハルハ・ホルステン河流域についてはソ連側の主張が通ったものの、宮崎部隊などが奪った南側の地域は日本側が主張する線で国境線が引かれたという。
 ノモンハン事件について、最近までは、日本軍がソ連の機械化部隊に惨敗したとされてきたが、ソ連崩壊後のロシアから旧ソ連軍の資料が公開され、死傷者はソ連側が2万6000人と日本側の2万人を上回っていたことが明らかになった。 秦氏は「航空戦や戦車戦なども含め、日ソ両軍の戦いは引き分けに近い」 とみている。



 シンポジウムでは、ソ連がモンゴルで行った粛清の実態も報告された。 最近、秘密解除された資料などによると、1937年から39年にかけ、チベット仏教のラマ僧を含め2万人を超すモンゴル人が反革命罪や日本へのスパイ容疑で処刑されたといわれる。
 同じころ、ソ連は欧州でもドイツとポーランド分割の秘密協定を結び、1940年、カティンの森などでポーランド軍将校ら2万5000人を集団処刑している。
 ロシアのメドベージェフ大統領は先月、モンゴルで行われたノモンハン事件70周年行事で、「この勝利の本質を変える握造は容認されない」 と述べた。 だが、歴史を握造していたのは、ソ連である。 ソ連はアジアでも欧州でも「解放者」 ではなかった。
 今年も、ノモンハン事件の参戦者や遺族らによる「ノモンハン事件現地慰霊之会」( 永井正会長 )が9月上旬、ノモンハンを訪れ、21回目の慰霊法要を行った。 ノモンハン事件の教訓を学び、戦死者を慰霊する気持ちを忘れてはならない。

ノモンハン事件:
 日独防共協定の成立は日ソの関係を冷却させ、これによりソ連と中国との間に提携の機運を生み日華事変の勃発とともに中ソ不可侵条約が結ばれ、これがついに国共合作にまで発展するにおよび、ソ連の極東における地位は安定し、日本は日華事変の拡大化に追われ、とうていソ連と事を構える余裕がなかった。 元来、満ソ国境は境界がはっきりせす紛争は絶えなかった。 昭和10年136件、昭和11年203件、昭和12年170件、このように紛争は増加の傾向にあった。 また昭和13年7月12日には張鼓峰事件という大規模な日ソ衝突事件が起ったが、昭和14年( 1939年 )5月11日に起ったノモンハン事件は、その規模と戦闘の激烈さにおいて、いままでのものとは比較にならぬものであり、近代戦の様相をまざまざ見せつけたものである。 6月から9月にわたる3ヵ月間の死闘の末、9月15日ようやく停戦協定締結となったが、関東軍は近代兵器の前に惨敗を喫した。






 北方領土問題はいつまでたってもらちがあかない。
千島列島に関し平和時に締結された最後の条約は明治8年の樺太千島交換条約である。
樺太はロシア領、千島列島は日本領とする分かりやすい内容だった。
これ以降の動きはすべて戦争がらみである。

日露戦争後のポーツマス条約では、日本軍が占領した樺太の、北緯50度以南が日本領となった。
第二次大戦では、終戦6日前の昭和20年8月9日に突然日ソ中立条約を破って満州に侵攻したソ連軍が、翌々日には南樺太に侵攻したばかりか、何とポツダム宣言を受諾した15日以降に千島列島を占領したのである。
まさに火事場泥棒である。
国際法的に戦争を終結させるためのサンフランシスコ講和条約では、日本が千島列島を放棄した。
米軍占領下の日本は正統な主張すらままならなかった。

 戦争による占領は一時的なもの、という現代の良識に立てば全千島列島は日本のものとなる。
百歩を譲り江戸末期に締結された日露和親条約に戻っても北方四島は日本のものである。
それがここ数10年、四島でも大きな譲歩なのに二島だの三・五島だのといった返還論が日本側から出されている。
不思議である

 ペテルブルグ大学でロシアの歴史や政治を学び、卒業後は当地の新聞社で働いたことのある が、ベルリンに赴任したばかりの を訪れこう尋ねた。

「ロシアとの交渉で一番大切なことは何だと心得ているかい」
Fは少考の後こう言った。
「他国との外交交渉と同様、誠意を示し信頼を勝ち得るのが基本ではないでしょうか」
「普通の国ならそうかも知れんが、ロシアにはその基本が通じない。 信頼関係を築いたと思っても、約束をしたと思っても、すぐさま破るのが常だ。 ヨーロッパ諸国や支那はそれで何度煮え湯を飲まされたことか」
「日本も気をつけないといけませんね」
「それがすでに煮え湯を飲まされているんだよ。 例えば樺太千島交換条約だ。 ヨーロッパの常識から言えば千島はもちろん、日露雑居だった樺太だって南半分は日本のものと主張してしかるべきだったのだ」
「多少の譲歩は妥結のため仕方ないこともあると思いますが、ロシア相手ではいけないということでしょうか」
「そうだ。 こちらの好意に対していつかあちらも好意で答えてくれるだろう、というのは日本人一般の考え方だ。 ところがロシア側は、日本が譲歩したのはロシアの強大な軍事力のためだ、威圧すればすぐに譲歩する国だ、と受け取るだけなのだ」

 こんな会話がなされたのは明治20年、Nは駐露公使で後に外務大臣となった西徳二郎、Fは駐ベルリン武官で後にシベリア単騎横断を成しとげた福島安正陸軍少佐 である。

日本人もロシア人も変らず、また人々は歴史に学ぼうとしない




( 2010.07.28 )

 

 第二次大戦の降伏文書に日本が調印した9月2日を、「大戦終結の日」 とする法案がロシアで成立した。 旧ソ連による日ソ中立条約を破っての対日参戦や、北方領土の不法占拠を正当化するもので、断じて受け入れられない。

 ところが驚くべきことに、武正公一外務副大臣は「対日戦勝」 などの表現がないとしてロシアに抗議しない考えを示した。 岡田克也外相も懸念の意を伝えるにとどまった。 これではロシアの思うつぼだ。

 ソ連は終戦間近の1945( 昭和20 )年8月9日、当時有効だった日ソ中立条約を破って日本を攻撃し、さらに8月15日の終戦後には北方領土を不法に占拠した。 これらの歴史的事実は、ソ連による明白な国際条約違反であり、侵略行為である。

 武正副大臣は記者会見で「ロシア側が一定の配慮を行った。 日露関係に直接影響を与えることにならないよう期待している」 と述べた。 だが、ロシア側が原案の「対日戦勝記念日」 を最終的に修正したのは、日本への「配慮」 というより、日本からの批判を封じ込めるのが狙いだった。

 そうしたロシア側の意図があるにもかかわらず、日本政府高官が、日露関係に直接影響が出ないことを期待するというのはあまりに腰が引けている。

 「対日戦勝記念日」 をロシアが制定したのは、日本が昨年6月、北方領土を「わが国固有の領土」 と初めて明記した改正北方領土問題特措法を成立させたことへの報復との見方が出ている。

 ロシアは今月8日にかけ、ソ連崩壊後では最大規模とされる軍事演習を、北方四島の択捉島で強行した。 日本政府の中止要求を無視したばかりか、記念日法案を上下両院でスピード可決し、メドベージェフ大統領が署名した。

 「事を荒立てたくはない」 という意見もあるが、歪曲わいきょくされた歴史観を放置すれば、ロシアがさらに増長してくることは火を見るよりも明らかである。

 第二次大戦開戦直後の1940年春、ソ連軍がポーランド人将校ら約2万2千人を射殺する事件があった。 「カチンの森事件」 とその後呼ばれた事件を、ロシアは昨年、ソ連の犯罪と認めた。 ポーランドの粘り強い抗議と調査要求があったからである。 日本外交は学ぶべきである。





( 2010.08 )
外国との関係において 日本の国益を擁護することも国会議員の重要な仕事だ 民主党と自民党の権力闘争、 民主党内の菅直人首相一派と小沢一郎剛幹事長一派の抗争は、 当事者にとっては深刻なのかもしれないが、 普通の国民の利害関心から乖離している。 毒蛇と毒サソリの戦いのようなものだ。

[ 降伏文書署名 ]( 画像クリックで拡大 )
部のいさかいによって、 日本の国力が弱体化しつつあることを冷徹に見ているのがロシアだ 菅政権成立後、 ロシアは日本に対する強硬なシグナルを出している。 7月7日に国家院( 下院 )、 同14日に連邦院( 上院 )において、 1945年9月2日、 東京湾に停泊する米戦艦ミズーリ号の艦上で日本が連合国に対する降伏文書に調印したことに因み、 この日を事実上の「対日戦勝記念日」 とする法案が採択された 近くメドベージェフ大統領が署名し、 発効する。

[ ミズーリ号上調印式全景 ]
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連崩壊後のロシアは、 スターリンのソ連が日ソ中立条約を侵犯して日本に戦争を仕掛けたことを後ろめたく思うようになった。 それだから、 一部の反日勢力がこの種の法律を採択しようとする動きを、 これまでロシア外務省とクレムリン( 大統領府 )が抑えていた。 しかし、 この抑えがきかなくなった。 菅政権に対してロシアは強硬なシグナルを送っている。 しかし、 それを日本の外務官僚は読み取ることができていない 権力闘争の論理を離れ、 国益の観点から、 現状を正確に把握するインテリジェンスが国会議員に求められる





( 2010.11.02 )

 使


 ロシアのメドベージェフ大統領が国後島を訪問した。 日本固有の領土である北方四島の不法占拠を固定化する暴挙であり、断じて認めるわけにはいかない。 日本政府は最大限の対抗措置を取らなければ、北方四島返還が画餅がべいに帰すことを認識すべきだ。

 菅直人首相は「大変遺憾だ」 と述べた。 前原誠司外相も「国民感情を傷つけるものだ」 と非難し、駐日ロシア大使を呼んで抗議した。 だが、これでは不十分だ。 対抗措置として駐露日本大使を召還すべきだ。 さらにロシアへのアジア太平洋経済協力会議( APEC )首脳会議招請を再検討することも通告すべきだろう。

 ロシア大統領の背信は、帰属先が未解決の領土に足を踏み入れたことだ。 ロシアは1993年の東京宣言で「北方四島の帰属に関する問題を法と正義の原則により解決する」 と約束した。 係争地であることを公式に認めたのだ。

 歴代の指導者も領土問題の存在を認めたからこそ、四島の地を踏まなかった。 日本が激しく反発することを恐れたからでもある。

 また大統領自らが歴史を歪曲わいきょくする試みに手を下したことも指摘したい。 ロシアは今年、第二次大戦終結を機に、日本が降伏文書に調印した9月2日を事実上の対日戦勝記念日に制定した。

 ソ連による北方領土侵攻の歴史を勝手に書き換えることは許されない。 先の中露首脳会談で「第二次大戦の歴史を捏造ねつぞうする試み」 を非難する共同声明を採択したことも、北方四島返還を求める日本を牽制けんせいするためだ。 こうした動きに菅政権が大して反発しないことなども想定 して、国後島を訪問したといえる。

 メドベージェフ氏は9月、ロシア名のクリール諸島( 北方四島と千島列島 )について「近く必ず訪問する」 と言明していた。 北方四島は戦後65年以上にわたり不法占拠されている。 このままでは、侵略された日本の領土が「ソ連が解放した領土」 と捏造され、世界に喧伝けんでんされることになる。

 菅政権は来週、横浜市で開かれるAPECを無難に乗り切ることだけに躍起となっている。 メドベージェフ氏がAPECに参加するなら、全首脳が一堂に会する場で北方領土問題を堂々とアピールすべきだ。 ロシアの非を直言し、世界に示すことができなければ、将来に禍根を残すだろう。


( 2010.11.07 )
使
 


 一時帰国した河野雅治駐ロシア大使がメドベージェフ露大統領の国後島訪問について報告した。 これに対し、菅直人首相は「情報収集をしっかりしてほしい」 と注文をつけた。 お粗末な内容と言わざるを得ない。

 河野大使は、訪問について「大統領が国内向けに指導力を誇示する狙いがあった」 と説明した。 だが、それはまさにロシアの言い分だ。 それで納得しては相手の思うつぼである。 ロシアの「国内問題」 にさせない外交姿勢こそが重要だが、「国内問題だから仕方がない」 とまるで言い訳をしているようにも聞こえる。

 日本外交の「目と耳」 である現地大使館は、ロシアが菅政権の弱体化につけ込み、強硬姿勢を強めているからこそ、情報収集を怠らず、必要なら菅首相を説得してでも対抗措置をとるべきだった。

 日本固有の領土に対し、ロシアの最高指導者がいとも簡単に、その歴史で初めて足を踏み入れるのに際して手をこまねいていた河野大使の責任は重い。

 さらに、大統領の歯舞群島と色丹島への訪問計画について、仙谷由人官房長官は「いちいちコメントを加えるほどのことはない」 と述べ、重大な問題を極めて過小に評価した。 認識の甘さと危機感の欠如は政権を覆っている

 メドベージェフ氏が9月29日、いったん訪問を中止した北方領土に「近いうちに必ず行く」 と言明した際も危機感は薄かった。 ある外務省幹部は「常識的に考えれば( 訪問は )ないだろうと判断していた。 結果として間違えていた」 と告白した。

 戦後65年の今夏、日本が降伏文書に調印した9月2日を事実上の対日戦勝記念日にロシアが制定した際も、日本の外交当局はロシアで進行する歴史歪曲の動きに強く抗議することすらしなかった。 情報収集力と分析力を向上させ、領土返還に向けた戦略の再構築をしなければ、日本の対露外交は今後も敗北を重ねることになろう。

 13日、横浜市でアジア太平洋経済協力会議( APEC )首脳会議が始まる。 傍若無人に北方領土に足を踏み入れるロシアの首脳とは会談してほしくないというのが多くの国民の感情だろう。 首脳会談をするなら、国際信義に反するロシアの背信行為を厳しくただすべきだ。 それもできないのなら、首脳会談はしない方がいい。


( 2010.11.09 )
使
 


 菅直人首相は一時帰国していた河野雅治駐ロシア大使をモスクワに帰任させた。 実に不可解な判断である。 到底、納得することはできない。

 河野大使の一時帰国には、ロシアのメドベージェフ大統領が日本固有の領土である北方領土・国後島を訪問したことへの対抗措置という意味があった。 たった5日の日本滞在で帰してしまう意味が、わかっているのだろうか。

 大統領は今後、北方領土である歯舞群島・色丹島への訪問も計画しているという。 これは1956年の「日ソ共同宣言」 で旧ソ連が引き渡しに同意した両島を、対日交渉のテーブルから葬り去ろうというロシアの強い意思表示にほかならない。

 歴代の両国首脳が確認してきた日ソ共同宣言の法的効力をも否定する暴挙であり、日本政府は断じて容認してはならない。 このような訪問を断念させる「外交カード」 として、河野大使は日本国内にとどまる必要があったのだ。

 外務省幹部によれば、河野大使は当初、13、14の両日、横浜で開かれるアジア太平洋経済協力会議( APEC )首脳会議終了後に帰任させる予定だった。

 日程を早めたのは、APEC出席で来日するメドベージェフ大統領と菅首相の首脳会談を実現させるためなのだという。

 ロシア側に配慮したのだろうが、首脳会談の意味をはき違えていないか。 会談は日本の国益を実現するためのものだろう。 本末転倒でしかない。

 仮に首脳会談が実現したとしても、帰路に大統領が再び北方領土に立ち寄る事態となれば、日本がいかに無力だったかを世界に示すこととなる。

 ことは日本の主権にかかわる問題である。 首脳会談がセットできた場合でも、菅首相は繰り返し、北方領土に対する日本の強い意思を表明し、おざなりの抗議で済ませてはならない。

 それにつけても残念なのは、菅首相がAPECを無難に乗り切ることだけに躍起になっていることだ。 国際外交の舞台では、理不尽な振る舞いには屈しないとして、首脳会談を拒絶することが必要な場合もある。

 形式的な協調や首脳会談ばかりを追い求め、結果として相手につけ込まれ、国益を失っているのがいまの菅外交ではないのか。



              


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