「通州事件」 への視点

 「通州事件」 とは、日本の支配化にあった 「冀東防共自治政府」 の保安隊が日本側に対して反乱を起こし、約200名の日本人居留民( ただしこのうち約半数は朝鮮人 )を虐殺した、という事件です。 この事件は、日本の 「暴支膺懲」 を煽り立てる絶好の材料とされ、今日でも 「南京虐殺」 の免罪符のように利用されることが珍しくありません。

 今日の我々は、当時のような単純な 「暴支膺懲」 の視点ではなく、事件の背景や意味づけなど、多面的な視点から 「事件」 を見る必要があると考えます。 ここでは、 「事件」 に関連したいくつかの記述を紹介します。


 まず、事件の概要について、信夫信三郎氏のまとめを紹介します。

信夫信三郎氏 「聖断の歴史学」 より

 7 通州事件( 三 )

 通州に駐屯していた日本の特務機関( 陸軍の諜報工作機関 )は、1937年7月26日、日本軍の北京・天津地区にたいする攻撃が迫ったため、通州門外の兵営に駐屯していた中国第二九軍の部隊にたいし 「貴部隊が停戦協定線上に駐屯せられる事は、在留邦人の保全と冀東の安寧に害がある」 という理由で27日午前3時までに武装を解除するとともに北京に向けて退去するよう要求した。

 しかし、第二九軍はうごこうとしなかった。 日本軍は、27日午前4時から攻撃を開始し、午前11時ごろまでに第二九軍を掃蕩した。 通州門外に中国軍隊はいなくなった。 ところが、日本軍は、通州の中国軍隊兵舎のとなりに冀東防共自治政府保安隊の幹部訓練所があることをよく知らず、保安隊の隊員を第二九軍の兵士と誤認して爆撃し、数名の保安隊員を死傷させた。特務機関長の細木繁中佐は、冀東防共自治政府の長官に陳謝し、犠牲者の家族に挨拶し、賠償に誠意をつくした。 北京特務機関補佐官として現地にいた寺西忠輔大尉は、日本軍が誠意をつくしたため、 「保安隊員は心中の鬱憤を軽々に、表面立って爆発させる事はしなかったのである」 としるしたが、北平駐在大使館付武官補佐官として北平にいた今井武夫少佐は、保安隊員は 「関東軍飛行隊から兵舎を誤爆されて憤激の余り、愈々抗日戦の態度を明かにした」 と述べた。

 7月29日、保安隊は予定の行動に蜂起した。 日本軍の守備隊は、北京南苑の攻撃に向っていて通州の守備は手薄であった。 まさか傀儡政権の保安隊が抗日の蜂起をするとは夢にもおもわず、逆に通州は安全だというので北京から戦火を避けて避難してくるものさえあった。 日本軍は完全に虚をつかれた。 留守を守る守備隊の数は、寄せ集めて110名ばかりであった。 保安隊の攻撃は、通州守備隊と特務機関に集中した。 守備隊長藤尾心一中尉と機関長細木繁中佐は戦死した。

 守備隊と特務機関のつぎには居留民が攻撃をうけた。 居留民の家は一軒のこらず襲撃をうけ、掠奪と殺戮にあった。 掠奪には保安隊員だけでなく市民も加わった。 日本人の旅館近水楼の掠奪は徹底的であった。 死体には烏が群がった。 性別のわからない死体もあり、新聞は 「鬼畜の行為」 とつたえた。

 陸軍省がしらべた犠牲者の数は、8月5日現在で発見できたもの184名、男93名、女57名、性別不明者34名であり、生き残って保護をうけたものの数は、134名、その内訳は 「内地人」 77名と 「半島人」 ( 朝鮮人 )57名であった。

 当時の支那駐屯軍司令官香月清司中将の『 支那事変回想録摘記 』が記録する犠牲者の数は、日本人104名と朝鮮人108名であり、朝鮮人の大多数は 「アヘン密貿易者および醜業婦にして在住未登録なりしもの」 であった。朝鮮人のアヘン密貿易者が多数いたことは、通州がアヘンをもってする中国毒化政策の重要な拠点であったことを示していた。 通州事件は、日本の中国 「毒化政策」 にたいする中国民族の恐怖と抵抗を標示していた。

 戦史家児島襄は、 「在留邦人385人のうち幼児12人をふくむ223人が殺され、そのうち34人は性別不明なまでに惨殺されていた」 と指摘し、 「生き残った者は、かろうじて教会に逃げこみ、あるいは例外的な中国人の好意でかくまわれ、中国服を着用して変装できた人々であった」 としるした。

 7月30日、守備隊に増援部隊が加わり、事件はおさまった。

( P115~P116 )

*信夫氏は 「誤爆」 を事件の契機とする従来の通説に従っていますが、反乱の首謀者だった張慶餘の回想記公表( 1986年 )以降は、 「張慶餘は事件前から冀察政権( 中国側 )の要人・・・と連絡を切らさず」 「通州の防備が空白となった機会」 をとらえて反乱に踏み切った、という説明が有力になっているようです。
( 秦郁彦氏 「盧溝橋事件の研究」 P313~ )

2004.8.18
「通州事件」 の直接の引き金については、《こちら》に記載しました。



 これに続けて、信夫氏は、事件の発表経緯に関する興味深い資料を掲載しています。 これによれば、支那派遣司令部は、当初は 「配下の保安隊」 の 「叛乱」 を隠そうとしたが、結局 「保安隊とせずに中国人の部隊」 として発表することにした、ということであるようです。

信夫信三郎氏 「聖断の歴史学」 より 

 8 通州事件( 四 )

 通州事件は、飼犬に手を噛まれたような事件であり、不幸な事件であるとともに不名誉な事件であった。 松村秀逸少佐は、陸軍省の新聞班に所属し、盧溝橋事件が起るとともに天津へ出張してきていたが、通州事件の報に接した支那派遣軍司令部の狼狽ぶりをしるした― 。

 その報、一度天津に伝わるや、司令部は狼狽した。 私は、幕僚の首脳者が集っている席上に呼ばれて、《 この事件は、新聞にでないようにしてくれ 》との相談を受けた。

 「それは駄目だ。 通州は北京に近く、各国人監視のなかに行われたこの残劇が、わからぬ筈はない。 もう租界の無線にのって、世界中に拡まっていますヨ」

 「君は、わざわざ東京の新聞班から、やってきたんじゃないか。 それ位の事が出来ないのか」

 「新聞班から来たから出来ないのだ。 この事件をかくせなどと言われるなら、常識を疑わざるを得ない」

 あとは、売言葉に買言葉で激論になった。 私は、まだ少佐だったし、相手は大、中佐の参謀連中だった。 あまり馬鹿気たことを言うので、こちらも少々腹が立ち、配下の保安隊が叛乱したので、妙に責任逃れに汲々たる口吻であるのが癪にさわり、上官相手に激越な口調になったのかもしれない。

 激論の最中に、千葉の歩兵学校から着任されて間もなかった矢野参謀副長が、すっくと立上がって<よし、議論はわかった。 事ここに至っては、かくすななどと姑息なことは、やらない方がよかろう。 発表するより仕方がないだろう。 保安隊に対して天津軍の指導宜しきを得なかった事は、天子様に御詫しなければならない>と言って、東の方を向いて御辞儀をされた。 この発言と処作で、一座はしんとした。

 「では発表します」 と言って、私が部屋を出ようとすると、この発表を好ましく思っておらなかった橋本参謀長( 秀信中佐 )は 「保安隊とせずに中国人の部隊にしてくれ」 との注文だった。 勿論、中国人の部隊には違いなかったが、私は、ものわかりのよい橋本さんが、妙なことを心配するものだと思った。

― かくして通州事件はあかるみに出たが、新聞は逆に 「地獄絵巻」 を書き立てて日本の読者を煽りたてた。

( P116~P117 )




 「事件」 に対する歴史学者の見解として、江口氏、および大杉氏のものを紹介します。

江口圭一氏 「十五年戦争研究史論」 より 

補論 通州事件について

 中国の抗日は日本の侵略にたいする反撃であり、正当・当然であるからといって、通州保安隊その他による日本人・朝鮮人・女性・幼児にいたる無差別虐殺は容認できるものではない。 しかし通州事件の評価・位置づけには少なくとも以下の三点への留意が必要である。

 第一は、事件が中国で、それも日本のさらなる中国侵略の拠点とされた通州で発生したという単純な事実である。 中国軍が日本へ侵攻し、たとえば九州で引きおこした日本人虐殺事件ではないのである。 異なる次元・地平に属するものを相殺のためにもち出すことはできない。

 第二は、中国側にとってもある意味で 「魔の通州」 と呼ぶべき事情が存在していたことである。 通州は冀東政権の本拠地であり、華北併呑の舌端であるとともに、アヘン・麻薬の密造・密輸による 「中国毒化」 の大拠点であった。 ヘロイン製造にあたった山内三郎は 「冀東地区から、ヘロインを中心とする種々の麻薬が、奔流のように北支那五省に流れ出していった」 と記し、中国の作家林語堂は 「偽冀東政権は日本人や朝鮮人の密輸業者、麻薬業者、浪人などにとって天国であった」 と書いた。 信夫信三郎 「通州事件」 は 「日本の中国『 毒化政策 』に恐怖し憤激した通州の市民が保安隊反乱の混乱に乗じて日本の居留民―および朝鮮人に―に報復した抗日事件」 として通州事件をとらえた。

 第三は、日本軍の守備責任の問題である。 通州の日本軍主力は北平総攻撃にむかっており、反乱に対応できなかった。 支那駐屯軍司令官であった香月清治中将は、杉山元陸軍大臣から通州事件について再三 「遺憾」 の意をあらわせと催促されたのにたいして、

通州に於て予期せざる保衛隊の叛乱に遭いて多数常人( 一般人 )は生命を殞すに至りたることは甚だ不幸の事に相違なきも之は寧ろ一種の避け難かりし天災と見るを適当とするが如し。 軍は当然努むべきことを努め貴重なる将兵多数の生命を犠牲となせり。 ・・・此の局部の事象を以て軍司令官が謝罪的遺憾の意を表明するは軍爾後の作戦指導及志気に影響する所大なりと信ずるものなり。

と回答した。

 軍司令官は 「天災」 といってのけたが、山中恒氏はこれを 「初めから日本人居留民などを切り捨てていた」 と断ずる。 いずれにせよ通州事件は日本を逆上させ、 「暴支膺懲」 を加速し増幅させた。 中国は通州での非行について高すぎる代償を支払わされることとなる。

( P239~P241 )


大杉一雄氏 「日中十五年戦争史」 より 

悲劇、通州事件の真実

 今回の通州の場合、虐殺は日本軍の誤爆によって触発されたといわれる。 たしかに7月27日の通州近傍の冀察第二十九軍との戦闘の際、援護した日本空軍が誤って保安隊を襲撃したことは事実である( 寺平忠輔『 盧溝橋事件』 )。

 しかし事件の真因はそのようなところにあるのではなかった。 盧溝橋事件以後の日中両軍の衝突が決定的になると、冀察側から冀東保安隊に対し、抗日決起の強力な働きかけが行われていた。 たまたま廊坊、広安門での二十九軍勝利の情報が伝わり、これに刺激された冀東各地の保安隊が、29日午前2時を期して一斉に蜂起し日本側を攻撃したものである( 今井武夫『 支那事変の回想』 )。 同盟軍といっても名ばかりのことで、平等な立場での協力ではなく、むしろ傀儡政権の保安隊であることに不満をもつ将兵がいて当然であり、いつ寝返っても不思議はない状況であった。

 「通州事件は戦争が生んだ最大の悲惨事であった。 私は悲しみ且つ憤る。 ・・・しかし武力によっては解決できない何物かがそこにあり、また支那民衆の抗日意識の根強さが尋常なものでないことを、率直に教えている」 ( 『改造 』37年10月号アンケート 「北支事変の感想」 に対する鈴木茂三郎の回答 「武力で解決出来ないもの」 )のであった。 しかし当時このような見解が発表されることはまれで、もっばら中国軍の暴虐が宣伝されていたのである。 鈴木はさらに続けて 「抗日の原因はよし支那側の誤解であろうとも抗日の原因を……究明しなければ日支問題の根本的解決がむつかしくはないかと思う」 と述べているが、さすが戦後日本社会党の委員長をつとめた人だけあって正鵠を射た批判を示していた。

 また山川均も短文の回答を寄せており、そのタイトルが 「支那人の鬼畜性」 となっていたため、戦後問題にされたが、その真意は 「むやみに国民感情を排外主義の方向に煽動し刺激することの危険」 を警告したものといえる。これに対し現在、通州事件を 「南京大虐殺」 と対抗させてとりあげる向きがあるが、両者はその規模も性格もまったく違うことを認識すべきである。

( P271~P272 )



また、 「保守派」 の秦郁彦氏も、 「通州事件」 については、このように冷静な見解を語っています。

秦郁彦氏 『中村粲氏への反論 謙虚な昭和史研究を 』より

 この種の残虐事件で、今もよく引き合いに出されるのが、盧溝橋事件から3週間後に北京近郊の通州で起きた邦人虐殺事件である。 死者120数人と数も多く、その惨状を見聞きして敵愾心を高めた京都第十六師団の兵士が、華中に転戦して南京で報復したという説すらある。 当時の日本の新聞も大々的に宣伝したものだが、実は日本のカイライ政権である冀東政府の保安隊が、日本機に通州の兵舎を誤爆され、疑心暗鬼となっておこした反乱によるもので、いわば飼犬に手を噛まれたようなもの。 さすがの日本軍も、殷汝耕政府主席の費任は問えなかった( 戦後、漢奸として処刑 )。

 ところが、今でも南京虐殺が話題になると通州事件を持ち出Lて相殺しようとする人が少なくない。中村氏はさすがにパスしたが、本誌10月号の 「まいおぴにおん」 欄で、田久保忠衛氏が 「冀東政府の所在地だった通州などで日本人が受けた惨劇はどう考えたらいいのか」 と相殺論を展開している。 おそらく中国人が日本人を集団虐殺した唯一に近い 「例証」 として、今後も長く通州事件は語りつがれるのではあるまいか。

 アジアでもっとも温和な仏教徒との定評があったカンボジアでポル・ポトの大虐殺が起きたように、残虐性と民族性を結びつける議論は成り立たぬし、不毛だと筆者は考える。 そうだとすると、○○人も日本人を惨殺した、というたぐいの情報集めに血まなこになる必要もない、というものである。

( 『諸君! 』 1989年11月号 P216 )



 「冀東政権」 の存在が中国経済に与えた影響、そしてその存在が 「反日感情」 を刺激していた事情については、当時憲兵として上海にいた塚本誠氏が、コンパクトにまとめています。

塚本誠氏 「ある情報将校の記録」 より 

 昭和10年11月、日本の工作により華北に段汝耕を主班とする冀東政権が樹立された。 これは段汝耕という留日学生出身の、中国ではあまり高く評価されていない男に、通州を中心とした停戦地域内に地方政権をたてさせ、そこを通じて日本の商品を合法的に中国に 「密輸出」 しようとしたものである。

日本の商品は大連に陸上げされると、鉄道で満州を通ってこの政府の 「領土」 にはいる。 その時、その商品はごく安い税がかけられる。 冀東政権は中国のなかにある地方政権ということになっているから、ここで一度税をかけられた商品はそこから中国のどこに運ばれようと、中国では二度と税はかけられない。いや中国があえてそれに税をかけようとすれば日本から厳重な抗議が出ることを覚悟しなければならない。

だからこういう合法的密輸品が中国の市場に大手をふって汎濫すれば、中国の商工業は破算するしかない。 もし中国政府にそれを阻止する力がないとすれば、中国はもはや国家の破算を待つばかりだ。 これが中国の愛国者を捉えた切迫した感情だった。 この感情で一番ゆさぶられたのは若い学生たちだった。

 10年12月、北京の学生が冀東政権に反対して起ちあがると、それにつづいて上海では学生が蒋政府に対して対日抗戦の請願デモを行った。 これは必然的ななりゆきである。 この運動はたちまち全土に波及した。

( P149~P150 )



 なおこの 「通州事件」 は、南京戦終了まもない1937年12月下旬、 「冀東自治政府」 と日本との間で、 「正式解決」 を見ています( 渡辺さんに示唆をいただきました )。 当時の新聞記事を紹介します。

「大阪朝日新聞」 昭和12年12月23日 

 通州事件愈よ解決

  冀東政府から誠意披露

北京特電二十二日発】

 去る7月29日日支軍衝突と同時に冀東保安隊の反乱によつて発生した通州事件の悲惨なる想出は今なほわが国民の脳裡を去りやらぬ痛恨事であるが、冀東政府の現政務長官池宗墨氏は事件解決策につき北京大使館当局と種々折衝中のところ大体左のごとき解決案を発見、池長官は2、3日中に北京大使館に森島参事官を訪問、冀東政府を代表し正式陳謝をなし犠牲者に対する慰藉金、日本側機関に対する損害賠償など合計120万円を日本側に交付し、これをもつて同事件の正式解決をはかることに決定した。

 即ち冀東自治政府としては北京の中華民国臨時政府に正式合流をなすに先立ち通州事件の正式解決をいそぎ、もつて日本国民に対する慰藉、陳謝の態度を明にしたものである。 なほ前長官殷汝耕氏も事件後厳重な取調べを受けつつあつたが間もなく同事件に通謀したる事実なきことも明白になりこれまた近く釈放されるものと見られる、また我が同胞の尊き霊を永遠になぐさめるため遭難地通州に大供養塔が建設されることになつてゐるが、右基金は冀東政府要路者の心からなる義金によるものである。

( 同紙 一面左下 三段記事 )


「東京日日新聞」 昭和12年12月25日 

 通州事件正式解決

  冀東政府と公文交換

【北京廿四日発同盟】

 未曾有の惨事として世人の記憶新たなる通州事件の解決方に関しては冀東政府長官池宗墨氏と日本大使館森島参事官との間に折衝が続けられてゐたが、今廿四日午後四時半池長官は北京大使館を訪問し公文を手交して正式陳謝と将来の保障をなし併せてこの事件による被害者に対する弔意賠償金を手交し森島参事官より右に対する回答文を手交、ここに同事件は全く解決を告げるに至った、交換公文の全文左の如し

冀東政府より森島参事官宛て書翰

[註] 以下、 「書翰」 の全文が掲載されています。 ご覧の通り大変読みづらいものですので、ポイントを赤字表示する、一部字間を空けるなどして読みやすくしました。 なお、マイクロフィッシュのコピーで判読困難な箇所もあり、その部分は■で表示してあります。

 以書翰啓上致候 陳者 本年七月廿九日通州において冀東政府保安隊の叛乱勃発し多数貴国民を殺傷し且貴国人所有財産に尠からず損害を与へたる不幸なる事件発生致候処 右に関し本官は責任の重大なるを痛感しここに冀東政府を代表し貴国政府に対し深甚なる陳謝の意を表し候 冀東政府は本事件責任者及び加害者を厳重処断する意向なるところ、右関係者はすでに辞任しまたは逃亡若くは貴国軍により討伐せられたるをもつて最早処分の方法無之次第につき右事情御諒察相成度、なほ将来は再び斯くの如き不祥事件を発生せしめざるやう誓つて万般の処置を構ずべく候 冀東政府は死者及び負傷者に対し夫々弔慰金及び見舞金を贈呈し、或は物質的損害につき相当の賠償を支払うべく右総額として金百廿万円を提供致度に付貴官において然るべく分配方御取計らひ御煩らせ度く右に御異存無きにおいては前記金額中、金四十万円は直ちに御送付致すべく残額金八十万円も成るべく速かに調達の上御送付可申上候、なほ本事件による犠牲者の慰霊塔を建設敷地提供方御要求の次第も諒承致候については、早速当方代表者会同実地検分の上協議決定のことと致度候、右に関し何分の御回答を致度候、右申し講じ旁々本官は■に重ねて閣下に向つて敬意を表し候

敬具          
中華民国二十六年十二月二十四日                   
冀東防共自治政府代理政務長官 池宗墨          
在中華民国日本帝国大使館 森島守人閣下

森島参事官より冀東政府池長官宛て返論

 以貴論啓上致候、陳者本月廿四日付書翰をもつて左の通り御照会相成諒承致候( 中略 ) よつて本官は貴官申出の次第を受諾し貴政府において貴論記載の各項を誠実に履行せられたる上は本事件は解決を見たるものと認むべく候 右回答旁々本官はここに重ねて閣下に向つて敬意を表し候

昭和十二年十二月廿四日                                
在中華民国日本帝国大使館参事官 森島守人    
冀東防共自治政府代理政務長官 池宗墨閣下

( [註] 「中略」 は原文通り )
* 「弔慰金は遭難者に配分 大使館当局談」 との記事がこれに続きますが、省略します。

( 同紙二面左下 見出し四段、記事五段 )


「東京朝日新聞」 昭和12年12月26日 

 通州事件の解決に感無量

  思ひ出に生きる遺児節ちゃん 温い祖父の膝下に

 支那事変に於ける第二の尼港事件として国民の痛憤を買つた通州事件で、非業の最期を遂げた遭難者に対し百二十万円の弔慰見舞金、慰霊塔の建設等で二十四日北京において日本大使館と冀東政府長官池宗墨氏との間に解決がついたが地下の霊や遺族や奇跡の生存者達は感慨無量のものがあらう

 通州事件で両親冀東医院○○直之助氏( 三六 )母シゲ子さん( 三一 )妹紀子ちゃん( 二才 )の一家全部を失ひながらも使用人支那人看護婦のためたつた一人救はれた可憐の孤児○○節子さん( 五才 )は祖父渋谷区○○ ○○直太郎氏( 六一 )に淋しく育てられてゐるが

廿五日は母方の実家群馬県利根郡水上村 ○○周作さん方へ遊びに行つて不在

時折あの残虐な当時をフト思ひ出しては子供ながらも淋しい顔をするものの元気で可愛く、時々支那の歌を唱つてゐる 又感心な支那の看護婦何鳳岐さんも満州国吉林省の病院に勤めつつ時折節子チャンの消息を尋ねてくる、直太郎は語る

通州事件は重大な国際問題ですからその解決方法は利欲に偏してはならないと私はかねがね思つてゐます、五千円の収入のあつた方は十万円の請求をしていいといふ方もありますが、私はそんな考へはありません、元元あの事件は運命の悪戯の仕業と思つて何もかもあきらめてゐます

ただ残された節子だけは身体を丈夫に芸術や学問を十分させる義務が私にかかつてゐるのでどうしてもあの子は立派に育てたいと思つています、あの子を救って呉れた支那人看護婦何鳳岐さんからも損害賠償の点を心配して 「損害の件はどんなにしましたか、伺ひ申し上げます」 とつたない文字ながら真情溢るる手紙を数日前呉れました

( 同紙十面上 見出し四段、記事五段 )

*記事中の氏名、住所は、プライバシーを考慮して、○○としました。

( 2003.11.9記 2004.2.29一部補記 2004.11.23秦氏の見解を追加 )






「通州事件」 ~直接の引き金~

 「通州事件」 において、日本軍麾下にあった 「中国人保安隊」 が反乱に踏み切ったきっかけは何か。 大きな目で見れば、中国側の議論に見られるように、中国人としての民族意識への目覚めから日本軍に従属することに嫌気がさして 「反乱」 に踏み切った、という見方ができるかもしれませんが、その 「直接の引き金」 については、いくつかの説が共存しているようです。

 大きく分けて、 「誤爆説」 「ラジオ放送説」 「事前密約説」 があります。 以下、個別に見ていきましょう。

*ここではあえて 「通州事件の直接の契機となった出来事」 に焦点を絞っていますが、その背景には、当時の 「冀東自治政府」 における日本の政策、そしてそれに対する中国側の反発が存在することは、言うまでもありません。

「通州事件への視点」 でも述べた通り、事件の背景を無視して 「虐殺」 のみを取上げることは一面的な議論である、と私は考えています。 これはある意味では、日本側の 「問題点」 に一切目をつぶり、 「事件」 を中国側に対する非難の材料として利用することのみを目的とした 「為にする議論」 である、とも言えるかもしれません。 ましてや、 「南京事件」 との 「相殺」 の材料として 「事件」 を論じるのは、大杉氏らも述べている通り、とんでもない議論でしょう。





<誤爆説>

 日本軍による 「誤爆」 が、 「叛乱」 の契機となった、とする見方です。 通州事件の現地解決にあたった外交官、森島氏の記述などに見られます。

森島守人氏 「陰謀・暗殺・軍刀」 より 

 通州事件

 北京に関するかぎり、何等の不祥事件もなく、無事に過ごし得たが、一大痛恨事は北京を去る里余の地点、通州における居留民の惨殺事件であった。

 通州は日本の勢力下にあった冀東防共自治政府の所在地で、親日派の殷汝耕の御膝元であり、何人もこの地に事端の起ることを予想したものはなかった。 むしろ北京からわざわざ避難した者さえあったくらいだった。

 冀東二十三県は塘沽協定によって、非武装地帯となっており、中国軍隊の駐屯を認めていなかったにかかわらず、わが現地軍が宋哲元麾下の一小部隊の駐屯を黙認していたのが、そもそもの原因であった。 中国部隊を掃蕩するため出動したわが飛行部隊が、誤って一弾を冀東防共自治政府麾下の、すなわちわが方に属していた保安隊の上に落すと、保安隊では自分たちを攻撃したものと早合点して、さきんじて邦人を惨殺したのが真相で、巷間の噂と異り殷汝耕には全然責任がなく、一にわが陸軍の責任に帰すべきものであった。

( P127~P128 )


田中隆吉氏 「裁かれる歴史」 より

 長氏が報復を叫んだ通州事件とは如何なる内容のものであらうか。 それは昭和十二年七月三十日冀東政府の首都通州に於て冀東保安隊の手に依つて行はれた二百数十名の日本居留民の虐殺事件である。

 この事件の発端は、当時承徳に在つた日本軍の軽爆撃隊の誤爆からである。通州には元来冀東保安隊二ケ大隊と宋哲元氏の二十九軍麾下の一ケ大隊と、日本軍の歩兵一ケ大隊が駐屯して居た。 この日本軍の歩兵一ケ大隊は二十九日夜南苑の攻撃に参加するため北平方面に出発した。 三十日朝からこの冀東の保安隊の二ケ大隊は南苑を攻撃する日本に軍策応して、通州の西南端兵営に蟠居して居た二十九軍の一ケ大隊に対して攻撃を開始した。 この攻撃を援助するため承徳から中富少将の指揮する軽爆隊が出動した。

 この軽爆隊は軽率にも、二十九軍の一大隊を友軍と誤まり、友軍である冀東保安隊を敵と見て痛烈なる爆撃を浴びせた。 冀東保安隊は激怒した。 そして攻撃を中止して二十九軍と合流し叛乱を起した。 殊にこの叛乱に拍車を掛けたものは日本軍が南苑に於て大敗を喫したとの宣伝であつた。

 叛乱軍は直ちに冀東政府の主席殷汝耕氏以下の主なる官吏を逮捕すると共に細木特務機関長以下の日本居留民の殆んど全部を虐殺した。 これが通州事件の全貌である。

 南京周辺の残虐行為は通州事件に比すればその規模に於て正に雲壌万里の差がある。 然し何れも日華事件の過程に於て日華両民族の間に生じた拭ふべからざる歴史上の汚点であることは間違いはない。

( P47~P48 )


 これらの 「誤爆説」 に対して、当時 「北京特務機関補佐官」 の地位にあった寺平氏は、このようなコメントを残しています。

寺平忠輔氏 「盧溝橋事件」 より 

保安隊誤爆事件

 ところがこの戦闘に関連して、厄介な問題が起った。 宝通寺の兵営と境を接している冀東保安隊幹部訓練所では、爆撃隊が対地戦闘を開始したと知るや、好奇心から隊員一同、広い校庭にとび出して、この戦闘を見物し始めたのである。

 華北の戦場に到着したのは数日前であり、通州の戦闘参加の命令をうけたのが今日の明け方だという飛行隊は、冀東と冀察の境界線がどのようになっているのか、保安隊訓練所がどこにあるのか、そのような細かい点はわからない。 だから今、脚下にとぴ出して騒いでいる冀東保安隊の姿を見た時、二十九軍の一味に違いない、と即断したのも無理はなかった。 爆撃の雨は、この保安隊の頭上にも、浴せかけられたのである。 たちまち保安隊員の数名が重傷を負い、数名はその場に爆死した。

細木機関長はこの報を聞くと直ちに自動車をとばして、冀東政府に殷長官を訪ね、陳謝するとともに爆死者の遺族に対しては、日本軍として、最善の方法を尽し、負傷者に対しても同様、十二分に療養と慰謝の方法を講ずる旨を申し出た。 そして二十七日、機関長自ら現場の視察、遺族の弔慰に奔走した。 さらに翌二十八日、教導総隊幹部一同を冀東政府に招集し、機関長は誤爆に関して説明を加え、彼等の慰撫に努めた。

 そのかいあってか、保安隊員は心中の鬱憤を軽々に、表面立って爆発させる事はしなかったのである。

 ( P369 )

 「誤爆」 は現地の速やかな措置により解決し、 「叛乱」 の原因とはならなかった、ということであるようです。

 しかし、森島氏・田中氏の記述も、このような 「現地解決」 の事情を知った上でのものであると推定されますし、また、この 「解決」 の事実が下級兵士にまで浸透していたかどうかも不明です。 現段階では、 「誤爆が原因ではない」 という即断は避けておいた方が無難かもしれません。 むしろ、寺平氏が 「保安隊員」 の 「心中の鬱憤」 に言及していることからもわかるように、ひとつの 「遠因」 として作用した、という見方も可能でしょう。





<ラジオ放送説>

 「誤爆説」 を否定した寺平氏は、代わって、 「ラジオ放送説」 を唱えます。

寺平忠輔氏 「盧溝橋事件」 より

 デマに躍った保安隊

 南京の放送局といえば、満州事変以来、すぐにもう、 「あああのデマ放送か」 とうなずかれるほど有名になっていたが、これが盧溝橋事件以後、活発な宣伝を始めていた。

 もっともこれも、蒋介石がこれによって自国民の志気を鼓舞し、世論を統一し、敗戦中国を崩壊の淵に追い込まなかった効果、それは極めて大きく評価されて然るべきであろう。

 確か七月二十七日ごろと記憶するが、北京特務機関がキャッチした南京放送ニュースは次のようにいっていた。

「日本軍は盧溝橋の戦場において、我が優勢な二十九軍と交戦の結果、支離滅裂の敗戦に陥り、豊台と郎坊とは完全に我が手に奪還してしまった。
 北京及び天津方面に在る日本居留民は、家財をまとめ、目下陸続、満州、朝鮮乃至本国に向って引き揚げを急いでいるが、今日の情勢をもって推移すれば、是軍が我が華北一帯から、完全に姿を消してしまうのもここ旬日を出ないであろう。
 現に我が中央軍は、津浦、京漢両鉄道によって、陸続華北の戦野に兵を進めつつあり。 また蒋委員長も、今すでに河南省鄭州に達し、一両日中には保定に赴いて自ら戦線を督励するはずである」

そして最後に

「なお、最近北京における軍事会議の結果、蒋委員長は近く二十九軍を提げて、大挙冀東を攻撃し、偽都通州を屠り、逆賊殷汝耕を血祭りにして、満州失地恢復の第一声を挙げる事を決議した」

と叫んでいる。

 事実、通州のような田舎に引込んでいると、日本軍でさえとかく全般の情勢にうといのが通例である。 いわんや冀東の保安隊など、戦争はいったいどちらが勝っているのか敗けているのか、皆目わからず、半信半疑でいたところへこうしたラジオ放送である。 彼等には放送の一言一句が、非常な魅力と迫力とをもって沁み込んで行ったのも、うなずけないことはない。

 日本軍を撃破した宋哲元がこの冀東に攻め込んで来た場合、我々の運命はいったいどうなるのか、いつまでも殷汝耕なんかに付いているのは危険千万だ。 機先を制し、進んで殷長官をいけどりにし、これを北京に持って行って宋委員長に献上したら、きっと重賞にあずかれるに違いない。 通州に在る日本軍の兵力は、今が一番少ない時だ。 事を起すなら今の中に限る。

 こうした気持に駆り立てられた冀東の保安隊総隊長張硯田、張慶余の両名は、それから寄り寄り反乱計画を立て始めたらしい。 かねがね冀東顚覆てんぷくの策士として入り込んでいた、郭鉄夫あたりがこの虚につけ込んで総隊長連中をたきつけたのは事実だし、共産学生の一味がこれに合流していた事も確実である。

( P369~P371 )


国民党の 「中国有利」 の謀略ラジオ放送を聴いた 「保安隊」 兵士が、このままでは自分も危ない、と保身のために叛乱を起こした、という説明です。

この 「ラジオ放送」 については、戦前の記事にも見られます。 昭和十二年九月発行の 「サンデー毎日」 臨時増刊、 「支那事変皇軍武勇伝」 から引用します。

「通州保安隊の叛乱と殷汝耕氏救出記 荒木五郎の活躍」 より

夜の十一時半からは、毎夜、東京からの戦況放送がある。細木機関長は、自分の居室で、ラヂオのスイツチを捻った。

「・・・支那駐屯の日本軍発表によりますと、廿八日朝、日本軍各部隊は、北平郊外西苑、南苑両方面の支那軍を攻撃して、敵に多大の損害を與へ、午後、○○部隊は南苑を完全に占拠致しました。 また同日午後の戦闘で、清河鎮、沙河鎮も、日本軍の手に帰しました・・・」

機関長は満足さうに、うなづきながら、ダイヤルを廻していつた。 突然、別の声が入つて来た!

「・・・支那軍は、北平、天津を完全に包囲し、廊坊を日本軍から奪還・・・」

全く、逆の戦況である。

「チエツ! また支那の逆宣伝か」 と、中佐は舌打ちしながら耳をすます。

「・・・蒋介石は日本軍に対し、廿四時間以内に北支を撤退せざれば二百台の飛行機を以て、北平、天津を爆撃する、と宣言した
・・・中央軍は、北上に北上を続けて、蒋介石は鄭州において全軍の指揮にあたつてゐる・・・」

毎夜のように、でたらめの電波をまき散らす南京のデマ放送だ。 このデマ放送に聴き耳をたててゐる保安隊員の殺気立つた顔が、すつと、中佐の脳裏をかすめた。

「リリリリリン」
けたたましい電話のベルだ。 中佐は受話器にとびついた。

「モシモシ、外務省の警察分署です。 特務機関長ですか? 保安隊営舎の様子がどうもをかしいのですが・・・、いま三個中隊くらゐの隊員が、政府の方へ歩いて行きましたが、この夜更けにどうも変だと思ひます・・・」

切迫した話声の間にも、警察分署の大時計がヴンヴンと二時を打つのが聞えた。

> 「よし、私はすぐ政府へ行く。 各方面に手配して、警戒・・・モシモシ、モシモシ」

電話は中途で切られた。
戸外に、あわただしい人声、物の壊れるはげしい音。

機関長は、手早く軍装をととのへた。 特務機関副官の甲斐原少佐に急を告げて、そのまま、冀東政府にかけつけた。 闇に沈んだ政府の門外は、すつかり制服の保安隊員で囲まれてゐた。 みんな銃を握つて殺気立つてゐる。 拳銃を持った学生らしい姿も交つてゐる。 中佐を見ると、パラパラとかけよつて、忽ち、周囲をとり囲んだ。

「特務機関長だ!」  中佐は大声で一喝した。 気をのまれて、たじろぐ隙に、素早く庁舎にとび込んだが、殷長官の姿は見えない。 すぐ、殷長官の邸へ回ってみた、居室にも、寝所にも長官の影はない。 明らかに拉致されたあとだ。

中佐は再び表へとつて返した。 静かな夜は一変して、銃声の嵐に包まれてゐた。 中佐は再び暴徒に取り囲まれた。 銃口の真只中で、最後の説得を試みたが、どうして、その声が彼らの耳に入らう。

「日本軍は大敗したのだ」 「このままではわれわれも危い」 「中央軍へ合流せよ」 「日本人を殺せ」

「ダダン!」  中佐を取囲んでゐた銃口が火を吐いた。 中佐の抜き放った日本刀が、闇に踊つた。 悲鳴とともに数人の暴徒の影がとびちつた。 中佐の大喝が、銃声をさいた。 そして、つひに巨木を倒すように、細木中佐の身体が大地にくづ折れた。

( 昭和十二年九月発行の 「サンデー毎日」 臨時増刊、 「支那事変皇軍武勇伝」  P80~P81 )

*[註]ご覧の通り、この記事は、死亡した細木中佐を主人公にした読み物風のもので、この場面は 「想像」 に基づくものと思われます。 実際には細木氏は 「遊郭で襲われた」 という情報もあります。 しかしこの時期、 「ラジオ放送説」 が一般的であったことがわかる大変興味深い記事ですので、ここに取上げました。


 戦前においては、この見方が結構ポピュラーなものであったようです。 陸軍省新聞班・陸軍砲兵少佐であった岩崎春茂氏も、同様の見方を示しています。

岩崎春茂氏 「戦の北支より帰りて」 より

 かくの如き二十八日の戦況に就きまして支那側は如何なる宣伝をやつたのでありませうか。

 支那側は、或は南京の方面からラヂオ放送に依りまして、又天津及び北京に於きましては新聞社は各々号外を発行致しまして次のやうなことを発表して居ります。 「支那軍は二十八日豊台方面の日本軍を殲滅し、目下日本軍は各方面に潰走中である」 といふ宣伝をぢゃんぢゃんやつたのであります。

 何も事実を知らない支那の民衆は実に喜んだのであります。 天津方面に於きましては外国租界の支那人、或は支那街の支那人は爆竹を鳴らし盃を挙げて戦勝祝賀会をやつたのであります。

 このあくどい支那側の宣伝が実はあの憎むべき二十九日の、各方面に於ける攻撃となつたのであります。  

( 昭和12年8月25日、東京軍人会館にて行われた講演の速記録。 朝日新聞社『 支那事変 戦線より帰りて 』P48~P49 )






<事前密約説>

 1986年、反乱の首謀者だった張慶餘の回想記が公表されました。 その中に、盧溝橋事件以前から、 「日本打倒の密約」 があったことが述べられているようです。 岡野篤夫氏が、この回想録を出典として書かれたと見られる 「盧溝橋事変風雲篇」 の内容を詳しく紹介していますので、以下、見ていきましょう。

岡野篤夫氏 「通州事件の真相」 より

 商震が京津地区から退き、代わって宋哲元の第二十九軍が進駐し、新たに冀察政務委員長となったとき、張慶餘らと宋哲元の間には何のつながりもなかった。 宋哲元は表向き日本との協調を表明しており、互いにその本心を明かすことは至難のわざであった。 これを結びつけたのは哥老会であった。 「盧溝橋事変風雲篇」 は、両者が哥老会の会員だったことだけで、そのつながりを当然としている。

 哥老会という言葉は日本人には馴染みが薄いが、これは哥弟会とも言い、清朝に亡ぽされた明朝の遺臣、失業軍人などによって組織された地下の秘密結社である。 様々な名称を持つ分派に分かれ、紅幇ホンパン青幇チンパンなどもその一派である。 中国全土にわたってその組織細胞を持ち、平素は盗賊や闇商売などをしているが、互いの間では信義と任侠を建前とし、然諾を重んじていた。 その隠然たる勢力は計り知れないものがあり、幾多の有名な大親分が現れて、時の権力者に利用されている。 上海の張嘯林、吐月笙などというボス達は闇の帝王であって、蒋介石の上海クーデターを成功させた。 とにかくその規模と歴史については、われわれ日本人の考え及ばぬものがあったようである。

 張樹声は哥老会の河北省支部の指揮者の一人で、張慶餘等はその子分であった。 張樹声は大物の宋哲元を信頼させるだけの顔があったようである。 その張樹声の内密の要請により、宋哲元は人眼をさけて、天津英租界十七号路の私邸で張慶餘、張硯田と遇った。 宋哲元は言った。

「お二人の祖国愛は日頃からよく存じており、最近また俊杰( 張慶餘のあざな )兄からお二人がカを合わせて抗日を念願されていることを聞き、自分は政府を代表して歓迎の意を表する。 ここにまずお二人に申さねばならぬことがあるので注意されたい。 この宋哲元は決して売国ではないので、今後お二人が私に対し他人行儀をされないよう希望し、かつ立場をしっかりさせて、再び動揺しないよう希望する」 。

 こう言い終わると蕭振■( 冀察政務委員会経済委員主席 )に命じ、二人にそれぞれ一万元を渡した。

 二人がお礼の言葉と共に 「われわれは今後協力して委員長に追随し、国家のため忠節を尽くしたい」 と述べると、宋哲元は 「すばらしい、すばらしい」 と言って握手した。 このことが保安隊の通州決起と関係がある、と張慶餘は書いている。

 この時期、宋哲元は日本の田代軍司令官を真の友人であると称し、日本軍との協力を誓っていた。 日本軍は全く迂闊でお人よしだったと言えるが、その理由は日本軍に中国と戦う意思がなかったからで、目的とするところは、居留民の保護と権益の擁護であった。 ところが、国民政府や中国共産党は、その権益擁護や日本人の居住することを 「侵略」 と考えていたのである( 他の諸外国に対してはそう考えなかったらしいが )。

 盧溝橋事件が勃発したとき、宋哲元は山東省の郷里に帰っていたが、張慶餘は腹心の部下・劉春台( 保安隊教育訓練所副所長 )をひそかに北京に派遣し、河北省主席( 第三十七師長 )馮治安に指示を仰いだ。 宋哲元から馮治安に張慶餘、張硯田との密約が伝えられていたことが察せられる。

 馮は 「現在、わが軍と日本軍とは、和するか戦うか未決定であるから、張隊長にしばらく軽挙しないよう伝えられたい。 わが軍が日本軍と開戦するときを待って、張隊長はその意表に出て通州で決起し、部隊を分けて豊台を側面から攻撃して挟撃の効果を収められたい」 と述べ、第二十九軍参謀長・張樾亭と連絡を保つよう申し付けた。 劉春台はその足で張樾亭に面会し、張樾亭は張慶餘と張硯田の部隊を中国第二十九軍の戦闘序列に入れた。

 同じ頃、通州の和木特務機関長は冀東保安隊幹部と連絡会議を開き、通州を第二十九軍から守ることを協議した。 この席で張慶餘は、各県に散在する部隊を通州に集中することを提起した。 これによって張慶餘の第一総隊と張硯田の第二総隊が逐次通州に集結したのである。 第三、第四総隊は動かなかった。

 そして張慶餘は 「自分は日本軍が大挙して南苑を侵犯し、かつ飛行機を派遣して北平を爆撃したのを見て、戦機すでに迫り、もはや坐視出来ないものと認めて、ついに張硯田と密議し、七月二十八日夜十二時、通州で決起することを決定した」 と書いている。
 
 日本軍は北京を爆撃したことはない。 南京のラジオ放送は 「北京の日本軍は中国軍に撃滅され、蒋介石は近く二十九軍を提げて通州を攻撃し、売国奴殷汝耕を血祭りに上げる」 と宣伝していた。 形勢を観望していた張慶餘が、この放送で意を固めたことは想像し得る。通州城外の傳鴻恩部隊が萱島部隊に攻められたとき、これを見殺しにして動かなかったことは、張慶餘が必ずしも第二十九軍に忠節を尽くしていたとは言えない。

( 『正論 』1990年5月号所収 P225~P227 )


 ただし、張慶餘の回想は、 「抗日」 のスタンスを強調する方向での一定の 「脚色」 がある可能性は否定できません。 例えば、秦氏は、このようなこのような見方をしています。

秦郁彦 「盧溝橋事件の研究」 より

 張慶餘は、回想記のなかで久しく以前から抗日を決意し、冀察幹部と通謀して反乱の機会を狙っていたと主張するが、二十七日早朝の戦闘で傳営( [註] 「傳営長」 の誤植と思われます。 中国側第ニ九軍 )と共に戦う機会を見送っている点からみても、説得力は乏しい。 むしろ保身に徹するか、勝ち馬に乗ろうとして形勢を観望していたと思われる。

( P316~P317 )

 通州で反乱にぶつかり九死に一生を得た同盟の安藤記者も、二十八日夕方に冀東政府内で同主旨のラジオ放送を聞いているから、張慶餘らはこのデマに踊って反乱に踏み切ったのかも知れない。 誤爆や萱島連隊の移動は、それを促進する材料となったのであろう。

( P317 )


 以上をまとめると、 「密約」 が存在したのは事実だが、張慶餘自身はその 「密約」 の実行をためらっており、最終的に実行に踏み切らせた材料としては 「誤爆」 なり 「ラジオ放送」 なりの要因もあったのかもしれない、ということになりそうです。 ( なお、このうち 「誤爆」 が要因であるかどうかについては論者の見解が分かれています )

( 2004.8.18記 )


 日本に対して、 「歴史の直視」 を訴える中国政府の急所は、自国の歴史認識に他ならない。 1937年に北京郊外で発生した通州事件と1946年に吉林省で発生した通化事件。 いずれも多くの日本の民間人が虐殺されたが、中国共産党は、現在に到るまで隠蔽し続けている。 戦後70年の今年、中国は戦勝国としての 「面子」 と 「立場」 を盛んに強調するが、自国の戦争犯罪を検証できない国に未来はないとジャーナリストの櫻井よしこ氏は指摘する。


 今年に入って中国が、日本に対して次々と 「歴史カード」 をきってきています。 最近では、虐殺の事実を確認できない南京事件の犠牲者を 「40万人」 とまで言い始め、 「日本兵の残忍さ」 を世界中に宣伝しています。 3月21日の日中韓外相会談でも中国の王毅外相は日本の岸田文雄外相に 「歴史を直視せよ」 と述べ、安倍政権を厳しく牽制しました。

 しかしこの言葉は、中国にこそ向けて発せられるべき言葉だと思います。

 中国の地で日本人が及んだとされる残虐な行為のほとんどは根拠に乏しいからです。 たとえば南京では 「赤ん坊を空中に投げ、落下するところを剣で刺した」 という話を中国政府は広めています。 日本の先人たちが、その種の暴虐に及んだとはにわかには信じがたいのです。

 調べてみると、そうした蛮行はむしろ中国人が日本人に対して及んだ行為であることが分かってきました。 日本ではなぜかあまり知られていませんが中国では日本人に対する虐殺事件が幾度も起きています。 代表的な事例が1937年7月29日の通州事件です。

 通州事件では約400人の在留日本人のうち200数十人が虐殺されました。 女性たちは辱められ、遺体を切り刻まれ、中国兵たちは切り落とした頭部で遊んだとさえいいます。 首を固定して吊るされている人たちも目撃されました。 彼らは食事も水も与えられず放置され、何日間もの長い間苦しんで死に至ったのでしょう。

 気付かれたでしょうか。 これらは、南京で日本人が犯した残虐行為だと中国政府が主張するものと酷似しています。

 人間は、自分の行動や価値観に基づいて、他人の行動を推し量ろうとする生き物です。 中国政府が、日本軍が南京で及んだと主張する行為には裏付けがない。 それどころか、日本人の犯罪を後からでっちあげるべく、自らの過去の蛮行を参考にした可能性があるのです。 その一つが通州事件だったと考えています。

 通州事件は中国人の民族性の一端を表していますが、それは100年や200年のスパンで築かれたわけではありません。 紀元前500年から紀元1000年までの約15000年の中国の歴史を、北宋の学者・政治家だった司馬光がまとめた 『資治通鑑』 という歴史書があります。

 1万ページに及ぶこの大著の中に中国人が長い歴史のなかですさまじい拷問を編み出し、政敵や反逆者たちへの罰として、繰り返してきたことが書かれています。 中国では刑は残酷であることをもって是とされ、捕らえた者をより多く、より長く苦しませなければ、逆に刑吏が罰せられました。 通州事件で日本人が受けた残虐な行為は、いずれも同書に繰り返し繰り返し登場する刑罰そのものでした。

 そうした民族性は、戦後も綿々と受け継がれました。 『資治通鑑』 を17回も読んだとされる毛沢東は、大躍進政策で約2000万人の農民を餓死させ、文化大革命で3000万人以上の知識人や富裕層を死に追いやりました。

 現在も、反政府の活動家や中国共産党内の不満分子に対して、人を人とも思わないようなすさまじい拷問が繰り広げられている、国家主席をはじめとする中国の指導者層は、同書に書かれていた恐怖政治を体制安定のために敷いているのです。
( ※SAPIO2015年5月号 )


 


 




chochotte,,,,,,,,,,,,